八代庄(読み)やつしろのしよう

日本歴史地名大系 「八代庄」の解説

八代庄
やつしろのしよう

現在の八代郡・市および下益城しもましき郡南西部の小川おがわ町に及ぶ南北に細長い郡名荘園。小川町のすな川以北から松橋まつばせ町の大野おおの川以南は旧八代郡であるが、当庄には属していなかった。ただ現在の豊野とよの下郷しもごう一帯は小隈野おぐまの(村)といい、当庄の飛地であった。荘域は大きく球磨川以南の高田こうだ郷、八代市山手の太田おおた郷、同市街部を占めた三箇さんか郷、現宮原みやはら町の山手から東陽とうよう村にかけての道後どうご郷、同じく平地部の小犬こいぬ郷、竜北りゆうほく町一帯およびかがみ町にわたる道前どうぜん(飛地の小隈野郷は道前郷内)に大別される。なお康永三年(一三四四)三月八日の少弐頼尚預ケ状写(阿蘇家文書)に、「八代庄内友知・小北地頭職」を阿蘇社壇の造営料として大宮司惟時に預け置く旨がみえるが、砥用ともち(現下益城郡)尾北おきた(現上益城郡甲佐町)は本来益城郡の守富もりどみ庄を根拠地とした木原氏の勢力下にあり、八代庄内であったとは考えがたい。当庄の規模を総体的に示す史料はないが、南北朝期の道前郷は野津のづ村二三五町二段三丈・鞍楠くらぐす村三五町九段一丈・法道寺ほうどうじ村二二町五段一丈中・種山たねやま村二一町八段四丈・大野村一五町一段三丈・鏡村四五町八段二丈・小隈野村四〇町九段二丈、計四一七町五段三丈の田数をもつ(「八代庄内道前郷田数目録」阿蘇家文書)。また一五世紀後半高田郷は三五〇町といわれているから(「相良氏山門知行以下由緒書」相良家文書)、当庄の総田数はおそらく一千町を超え、肥後有数の大荘園であったとみられる。

当庄の成立経過は明らかでないが、平家没官領として源頼朝の妹の一条能保室が知行した二〇ヵ所の所領中に肥後国八代庄がみえ、これらの所領が建久三年(一一九二)一一月子息らに譲られている(「吾妻鏡」建久三年一二月一四日条)。平家没官領とされたのは、仁安元年(一一六六)この地が平清盛の大功田とされていたからであろう。「公卿補任」仁安二年条に、八月一〇日の官符で「肥後国(ママ)代郡南郷土比郷等」を大功田となし子孫に伝うとあるが、あるいは「八代南郷上土郷」のことであろうか。この一条能保室の知行したのはおそらく領家職ないし預所職であったと思われるが、領家職・本家職などの実態についてはまったく不明である。ただ建武政権成立後、当庄の地頭職は名和義高(長年の子)に与えられており、それは当庄が鎌倉末期近隣の葦北あしきた庄などとともに北条氏領となっていたためではないかと思われる。もし北条氏の権限が一条能保室の子孫のそれの継承とすれば、能保子息の一人信能の承久の乱での京方与同による没落によって獲得した預所職と惣地頭職を兼ねるような権限であったかもしれない。


八代庄
やしろのしよう

古代の気多けた狭沼さの(和名抄)が、のち狭沼郷・八代郷と八代庄とに再編成されたと考えられる。円山まるやま川支流八代川上流域の八代と円山川支流奈佐なさ川上流域の河江かわえ(河会)小河江こがわえ一帯に比定され、歓喜光かんきこう(跡地は現京都市左京区)領。別名を河会寺といい、河会寺の名称では康平六年(一〇六三)の妙香院庄園目録(門葉記)にみえ、安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(山科家古文書)には「但馬国河合・温泉両寺」とみえ、温泉おんせん(現城崎町)とともに八条院領のうちに数えられている。弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には「八代庄 五十三町八反」とみえ、「又号河会寺」「歓喜光院領 院御領」「給主但馬前司入道」「地頭小河左衛門六郎宗祐」「公文八代右近入道善阿 御家人」の注記があり、庄田の内訳は、不作河成二町五反九〇歩、権門領四町九反半、河会寺田一〇町、安養あんよう院三町、中禅ちゆうぜん寺二反、人給五町八反、定田二七町三反九〇歩である。歓喜光院は美福門院の御願寺で、歓喜光院領は美福門院の娘八条院から後鳥羽上皇などを経て、太田文当時は亀山上皇が伝領。地頭の小河宗祐は武蔵国の御家人小川氏の一族であろう。公文の八代善阿は八代庄を本拠とすると思われる国御家人。八代庄を別名河会寺とよぶのは、河江にあった河会寺とは谷筋を異にするものの、庄内に河会寺田一〇町があるように、八代庄は河会寺領を中心に開発が進んだことによるものであろうか。


八代庄
やつしろのしよう

きたの熊野神社を中心とした地域にあった庄園。「和名抄」所載の八代郡八代郷の地に成立したとみられる。康治元年(一一四二)一月二三日甲斐守に任じられた藤原顕遠が(台記)、久安年間(一一四五―五一)に紀伊の熊野本宮一一月八講用途に充てるように同宮に寄進して立券し、さらに二、三年後には鳥羽院庁下文を得て正式に成立した(長寛勘文)

応保二年(一一六二)一月二七日、新たに甲斐守となった藤原忠重は(山槐記)、目代右馬允中原清弘を派遣して新立庄園の停廃などを命じた。甲斐に下向した清弘は、一〇月六日在庁官人三枝守政を率いて庄内に乱入、年貢を奪い取り、在家を追捕し、神人を搦め取って監禁したり、口を割くなどの乱暴を働くとともに、示を抜棄てて同庄を収公するという事件を起こした。神社側が一一月に庄家損物注文を作成し、翌月訴え出たのに応じて、朝廷は一二月二一日忠重に宣旨を下し、損物の返済と下手人の追捕・召進を命じている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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