日本歴史地名大系 「八口村」の解説 八口村やつくちむら 新潟県:岩船郡関川村八口村[現在地名]関川村八ッ口荒(あら)川右岸に位置し、東を上(かみ)ノ沢、西を下(しも)ノ沢が流れて荒川に注ぐ。大永元年(一五二一)大里(おおり)峠が開かれるまでは、当村から越戸(こえと)(昭和二〇年山形県西置賜郡小国町へ集団移転)を経て田代(たしろ)峠を越えて出羽国に入り、小渡(おど)(現小国町)へと達する道が通る要地であった。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「垂水分八口村」とみえ、本納三斗で屋敷、縄高八石七斗七升九合、家二軒とある。近世は初め村上藩領、宝永六年(一七〇九)幕府領。 八口村やつくちむら 富山県:高岡市旧礪波郡地区八口村[現在地名]高岡市八口など高辻(たかつじ)村の南に位置し、北端は広谷(ひろたに)川に沿う。南は四日市(よつかいち)村。元和五年(一六一九)の家高新帳では国吉才二郎組に属して村名がみえ、役家数七。正保郷帳では四日市村と併記して村名がみえ、高五一一石余、田方二八町一反余・畑方六町、新田高七五石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印による草高二三七石・免六ツ八歩、同五年の新田高一石。小物成は山役五一匁(三箇国高物成帳)。延宝四年(一六七六)の役家数九、肝煎は少左衛門(「礪波郡村肝煎給米図り帳」川合家文書)。 八口村やつくちむら 福井県:坂井郡丸岡町八口村[現在地名]丸岡町八ツ口(やつくち)・今福(いまふく)丸岡城下の西南方に位置する農村。北は一本田(いつぽんでん)村、西は称念寺門前(しようねんじもんぜん)村。江戸時代福元(ふくもと)村ともよばれた。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に「八口村」とみえる。正保郷帳によれば田方一千五五四石余・畠方五四石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by