四日市村
よつかいちむら
[現在地名]宇佐市四日市
現宇佐市域の西部中央に位置する。地名は四日に定期市が開かれていたことに由来するといわれ、古くから開けた地であったと思われる。戦国時代には南西方元重村近くの小倉山(狐塚山)の小倉城(四日市切寄)に拠った渡辺氏が在地領主として一帯に勢力を振るった。元禄一三年(一七〇〇)には幕府の四日市代官所が建てられ、宇佐郡地方における政治・経済上の中心地の一としての位置を固めている。北は吉松村、北西は高村、東は石田村・閤村、南西は元重村、南は山本村。当村境、石田村の瓦塚は最近の発掘調査によって奈良時代宇佐郡衙の所在地とみるむきもある。地内台ノ原・加賀山・小菊などの台地上には弥生時代から古墳時代の遺跡が多く分布する。
「豊前志」には「四日市ははやくは茅萱生ひたる原野なりしが、明徳の頃よりはじめて開かれそめつゝ、家居もかつがつ出で来りたる」とあり、享保一〇年(一七二五)に前出渡辺氏の子孫渡辺綱幹が記した「四日市村年代記」の序文によれば、当村は明徳四年(一三九三)の草創という。なお同書によれば、渡辺氏は肥前国松浦の出身で、防州大内家に仕え、明徳年中大内義弘の恩賞にあずかって高家郷の当地に来住したといい、このとき衣食の地は三〇〇貫の所帯であったという。天文二〇年(一五五一)の大内義隆自害以降、大友義鎮によって所帯を没収されたが、旧領のうちいくらかを安堵され、その後は大友氏のため軍役に馳走したという。天文一七年には大友氏被官永松兵部丞が「四日市」で生害している(四月二九日一「某覚書」到津文書)。天正八年(一五八〇)九月二〇日の大友義統充行知行坪付注文(渡辺鉄蔵文書)によると、宇佐郡で計五七町五反の地が「四日市切寄衆中」に与えられている。四日市の地名があり、この頃はすでに市立てもあったのであろう。同一二年一二月三日の田原紹忍等連署書状(渡辺功文書)では四日市切寄衆中の軍労に対して「切寄商売人」が往反のときの諸公事・点役等を永代免除している。また大友義統の袖花押のある年未詳一〇月二八日の渡辺統忠四日市町済物定文(渡辺久文書)によると、当地では「町済物」九〇〇文を渡辺氏に納めることとなっていた。なお当地の南東部、現在の字角木・瀬良・久保・奥園の一帯は古くは常徳村とよばれていた。
四日市村
よつかいちむら
[現在地名]米子市福市
青木村の東、日野川と法勝寺川(尻焼川)合流部南方にある。日野川が東方へ転流する以前は同川西岸のかなり広範囲を占めていたと推定され、「和名抄」の会見郡千太郷を当村一帯とする説もある。戦国期には戸上山城の城下町で、慶長年間(一五九六―一六一五)同城廃城後、商工業者は米子城下に移り住み、四日市町を形成したという。天正一五、六年(一五八七、八八)頃の吉川広家領地付立(吉川家文書)に「四日市分」とみえ、狩野分等四ヵ所とともに一五〇貫が吉川氏領。藩政期の拝領高は一九四石余、本免は四ツ七分。「伯耆志」によれば南部の上四日市と北部の下四日市とに分けてよんだ時期もあったらしい。
日野川東岸となったかつての村域では荒蕪地の再開発が進められた。寛永期(一六二四―四四)から旧毛利氏家臣で安養寺守護の武士であったと称する三刀屋(服部)氏と同じく安養寺の武士という小原氏により、米子荒尾氏の許可を得て四日市村新田の開発が進められた。
四日市村
よつかいちむら
[現在地名]玖珠町四日市
木牟田村の東方にあり、南は戸畑村など。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条にみえる荒田駅を当地とする説がある(太宰管内志)。元和八年(一六二二)の走り百姓帳(松井家文書)に村名がみえ、慶長一九年(一六一四)小倉藩領の宮園村(現耶馬渓町)の百姓四人が当村に逃げてきている。正保郷帳に村名がみえ、田高六六六石余・畑高三六四石余で、古後郷に属し、柴山有、日損所と記す。元禄郷帳では高一千四〇石余。
四日市村
よつかいちむら
[現在地名]高岡市四日市など
八口村の南に位置し、氷見道に沿う。村名は毎月四の日に市が開かれたことに由来するという(国吉小史)。天正一三年(一五八五)一〇月一日、前田利勝(利長)は従来どおり鮭網役米二斗・鮭四尺を納めるよう五位庄のうち四日市村に命じている(「内嶋組御判物等」五十嵐家文書)。同二〇年六月二六日の野毛地子銭申付状(川合家文書)によると、当村のうち河中島野毛の地子銭一〇〇文を納入すべきことが、当村の与三左衛門に申付けられている。
四日市村
よつかいちむら
[現在地名]村上市四日市
三面川左岸に位置し、山田川が東から南西へ流れる。北西は興屋村、南は天神岡村、北は小川村(現岩船郡朝日村)に接する。出羽街道が南北に通り、柳生戸から三面村(以上現朝日村)を経て小国(現山形県西置賜郡小国町)へ通じる道が分岐する。永正六年(一五〇九)九月一一日の耕雲寺領納所方田帳(耕雲寺文書)に「四日市丞 一貫地ベチン堂本作小河神主役三百文 山辺里殿之分」とみえる。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「鮎川分大国但馬分四かいつ村 上」とみえ、本納一三五石一斗八升・縄高二九二石五斗六升一合、家一五軒、三面川左岸沿いに描かれる。
四日市村
よつかいちむら
[現在地名]仁多町河内
河内村の北西に位置し、阿井川の北岸、北の鞍掛村に通ずる谷間に立地する。西は下鴨倉村。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高一六九石余、寛文四年(一六六四)の本田高一六九石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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