琵琶を伴奏にして叙事詩を語った盲目の法師形の芸能者。7世紀末ころに中国より伝来した琵琶は,管絃の合奏に用いられる一方,盲僧と結んで経文や語り物の伴奏楽器とされた。《今昔物語集》には琵琶にすぐれた宇多天皇の皇子敦実親王の雑色(ぞうしき)蟬丸(せみまる)が,盲目となって逢坂山に住んだが,そのもとに源博雅(みなもとのひろまさ)が3年間通って秘曲を伝授される話を載せる。蟬丸は琵琶法師の祖とされ,醍醐帝第4の皇子という伝承を生むが,一方彼らの自治組織ともいうべき〈当道(とうどう)〉では,仁明天皇第四皇子人康(さねやす)親王を祖神とし,天夜(あまよ)尊としてまつる。散逸した《小右記》には寛和元年(985)7月18日条に,琵琶法師を召して才芸を尽くさしめたことが記されていたといい(《花鳥余情》),《新猿楽記》にも〈琵琶法師之物語〉とあるから,平安時代に叙事詩を語って活躍したことは確かである。鎌倉時代に軍記物語が生まれると彼らは《平家物語》を表芸として語り(平曲),その内容をより豊かにした。《徒然草》には生仏(しようぶつ)を平家語りの祖と記すが,のちに名人の城一の弟子筑紫如一,八坂城玄が2流をたて,如一は一方(いちかた)流を,城玄は八坂流を称して芸を競った。〈当道〉では,2月に京都四条河原で石塔会(しやくとうえ),6月に納涼会を催して祖神をまつり,その出席の席次によって勾当(こうとう),検校(けんぎよう)と位が進む。中世後期の公家の日記には,弟子の小法師を連れて諸家を訪れる彼らの姿がしばしば登場する。
執筆者:山路 興造
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琵琶を弾奏しながら物語などを語った僧形(そうぎょう)の芸能者。ほとんどが盲人であったが、なかには晴眼者もあった。平安中期に、中国から渡来した琵琶を用いて経文を読唱する琵琶法師があり、平安末期には寺社縁起譚(たん)や合戦物語を語り歩いた。鎌倉時代に入ると『平家物語』を生仏(しょうぶつ)という盲僧が語ったといわれ、その系譜は平曲(へいきょく)とよばれて進展した。一方(いちかた)流、八坂(やさか)流(城方流)の平曲は15世紀に全盛時代を迎えた。その後、流派が多発したが、江戸時代に入ると三味線に圧倒されてしだいに衰微していった。そのため琵琶法師の流れをくむ盲僧たちは箏曲(そうきょく)のほうに移り、いまでは箏曲を指導する老検校(けんぎょう)のなかに平家琵琶を語る者が残存し、後継者が出始めている。薩摩(さつま)琵琶など平曲以外の琵琶法師は九州などにわずかに残っている。
[関山和夫]
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琵琶を弾きながら語り物などを語る僧形の盲目芸能者。琵琶を肩に担ぎ諸国を流浪した。平安中期にはすでに存在しており,後期の「今昔物語集」には源博雅が盲琵琶(めしいびわ)の名手蝉丸(せみまる)から琵琶を伝授されたことが記され,琵琶法師が盲人に限定されてくることが知られる。中世になると琵琶を弾く法師は宗教的儀礼にたずさわる盲僧と,琵琶の伴奏で「平家物語」を語る放浪芸人としての平曲(へいきょく)琵琶法師とにわかれるようになった。室町初期には平曲琵琶法師は当道(とうどう)という組織を作り,その統制のもとに全国で活動した。平曲以外に朗詠・狂言・軍談などの雑芸も行い,この流れは江戸時代の太平記読みへとつながる。一方,盲僧は「地神経(じじんぎょう)」を語りながら,九州・四国地方で門付(かどづけ)をした。
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…《平家物語》は読本として早くから流布したらしい。これは当然のなりゆきとしても,《平家物語》の本質はやはり単なる読物ではなく,盲僧(琵琶法師)のかたる語り物であった点に存する。さきに引いた《徒然草》の一節も,行長が《平家物語》を作ったのは語らせるためであったと解される。…
…これら古い説話を見ると,近江国逢坂関の近辺にたむろして,音曲を奏して旅人を慰めていた放浪芸能民に関する伝承が原型であったと思われる。それが,いつのころか〈蟬丸〉という個人の名に仮託して語られるようになり,さらにこの蟬丸を〈芸の始祖〉〈音曲の守護神〉と奉じた盲目の琵琶法師たちによって神格化が行われたのであろう。そのとき,蟬丸は延喜帝の第4皇子という高貴な身分に擬され,貴と賤とを併せ担う虚構の人物となって立ち現れた(《平家物語》《無名抄》など)。…
…中世に行われた《平家物語》の作者伝承に,〈悪七兵衛カゲキヨ〉を原作者の一人とする説があるのも(《臥雲日軒録》文明2年正月4日,座頭熏一の談),当然そのような〈盲人の一群〉との関連で考えられる。ほとんど全国的に分布する景清伝説にしても,景清を開祖または祖神とする琵琶法師の足跡と無関係ではないだろう。なぜ,とくに景清が盲人・琵琶法師と結びつくかといえば,壇ノ浦を落ちのびた景清が,平家滅亡の報道者の資格をもつとともに,おそらく景清のカゲが姿かたち,光明を意味すること,すなわちその名がそのまま盲人の切実な欲求を表現することに起因するからだろう。…
…天台宗では慈覚大師(円仁)以後,民衆教化のために〈和讃(わさん)〉や〈講式〉といった宗教的な語り物を積極的に作り出していた。一方で,平安時代から神社に属し,祭式などのおりに物語を語った盲目の琵琶法師の存在がすでに知られており,彼らが当時まだ人々の記憶に新しい平家一門の悲劇を,鎮魂の意をこめて頻繁に語りのテーマにとり上げていたであろうことは想像にかたくない。そこに行長と生仏という人材があらわれて,《平家物語》という一大唱導芸術がつくり出されたということは考えられる。…
…現存史料によるかぎり,遅くとも1240年(仁治1)当時,《治承物語》とも称した6巻本が成立していたことは確かである。吉田兼好の《徒然草》226段によれば,九条家の出身で天台座主にも就任した慈円に扶持されていた遁世者信濃前司行長が,東国武士の生態にもくわしい盲人生仏(しようぶつ)の協力をえて《平家物語》を作り,彼に語らせ,以後,生仏の語り口を琵琶法師が伝えたという。信濃前司行長については実在が確認できないが,慈円の兄九条兼実の邸に,その家司として仕えた下野守行長がいたし,青蓮院門跡に入った慈円が,保元の乱以来の戦没者の霊を弔うために大懺法(だいせんぽう)院をおこし,その仏事に奉仕させる,もろもろの芸ある者を召しかかえたことが確かなので,《徒然草》の伝える説には,単なる伝承としてしりぞけられないものがあるだろう。…
…大陸の盲人琵琶芸との直接の交渉は定かでないが,これまで各地の悪霊や祟(たた)り神を祓っていた日本の盲人たちも11世紀ごろには琵琶を手に入れ,やがて都の市や辻で琵琶にあわせて寿祝の物語を語り,あるいは今様(いまよう)を歌いはじめた。また古代末期の打ち続く戦乱の中で戦没者の怨霊を鎮めた琵琶法師たちはその鎮魂のいくさがたりに説話や伝説・記録などを採り入れて源平合戦の壮大な叙事詩をつくりあげていった。これらの琵琶法師たちの語りは,布教・勧進のための唱導諸芸能の組織化を図る旧仏教の意図も関与して,《平家物語》として集大成されるに至る。…
…おもに地神経(じしんきよう)を読誦し,竈祓(かまどばらい)をして歩く琵琶法師。《平家物語》を語る琵琶法師が〈当道(とうどう)〉と称し,久我(こが)家の支配下に自治組織を確立していたのに対し,盲僧は仏説座頭(ざとう)とも称して中国西部や九州地方に活躍,比叡山正覚院の支配を受けた。…
※「琵琶法師」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
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