蒲生郷
かもうごう
近世の鹿児島藩の外城の一つ。始羅郡に所属。薩摩国との国境にあたる同郡西端に位置し、鹿児島城下から五里半の地にある(「三州御治世要覧」など)。弘治三年(一五五七)蒲生氏が守護島津氏に追われて
答院へ退去したのち島津氏直轄領となり、比志島国守が初代蒲生地頭に任命された(「島津国史」・諸郷地頭系図など)。このとき蒲生氏に同行して退去した家臣の穴埋めとして、各地から多くの武士が蒲生に移住している。「蒲生野史」に「阿多・加世田・谷山・桜島其の他の諸郷より屈竟の武家八十八戸を久徳に移住せしめて鎮撫せしめしと云ふ」とあり、享保二年(一七一七)の蒲生衆中先祖記写(谷口家文書)には衆中の各出身地が記され、薩摩国の加世田・川辺・出水・串木野、田布施・阿多(現金峰町)、谷山(現鹿児島市)、隈之城(現川内市)、大隅国の菱刈郡、横川、日向国の宮崎、綾(現宮崎県綾町)、真幸(現同県えびの市など)、豊後国などがみえる。なお比志島国守が蒲生地頭に任命された頃、北村に比志島国真(国守の弟)、松坂(木津志村のうち)に市来内蔵助が地頭として置かれていたという(地誌備考)。
文禄四年(一五九五)六月二九日の豊臣秀吉朱印知行方目録(島津家文書)によると、「隅州姶羅郡蒲生之内三ケ村」二千六四二石余が島津義弘(惟新)の蔵入地とされている。
蒲生郷
がもうごう
「和名抄」東急本は「蒲生」、高山寺本は「
生」と記し、ともに訓を欠く。現岩美町蒲生を遺称地とし、蒲生川上流域に比定される。
蒲生郷
がもうごう
「和名抄」諸本のうち名博本は「蒲原」と記す。いずれも訓を欠く。「太宰管内志」は「加万布と訓ムべし」とする。「宇佐大鏡」に宇佐宮領のうちに散在常見名田として蒲生安則がみえ、現在も北九州市小倉南区に蒲生の地名が残ることから、紫川流域に比定できる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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