八日町村(読み)ようかまちむら

日本歴史地名大系 「八日町村」の解説

八日町村
ようかまちむら

[現在地名]遊佐町遊佐町

大楯おおだて村の西にあり、北西十日町とおかまち村。堰端せきばたには奈良―室町時代の集落跡がある。地名は八の日に市が開かれたことに由来し、大楯の城下として町場化していたとみられる。正保庄内絵図(本間美術館蔵)によれば内郷うちごう街道が通り下長橋しもながはし村との間に一里塚があった。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録には八日町村として九一石余、ほかに鵜田分二二〇石余・波田分一〇五石余・林正院分二八石余・狩川分五石余・榎本分二一石余の計四七一石余とある。


八日町村
ようかまちむら

[現在地名]鶴岡市八日町・陽光町ようこうまち稲生いなおい一丁目・青柳町あおやぎちよう本町ほんちよう三丁目・美原町みはらまち

柳田やなぎだ村の東、鶴ヶ岡城下の南西にあり、城下より湯田川ゆたがわ温泉に向かう小国おぐに(田川)街道の道筋にあたる。同街道沿い北東に城下鍛冶かじ町と接続する。また、現在の真言宗豊山派東昌とうしよう寺の裏手近くの旧街道沿いあか地蔵堂の所に一里塚があった。地名は東昌寺の薬師仏の縁日が八日であったことに由来するとか、かつて洪水の際に同寺裏手の川淵に薬師仏一体が流れつき、八日間も淵に巻かれていたので八日巻ようかまき呼称が起こり、これが転訛したなどの説がある。


八日町村
ようかまちむら

[現在地名]国府町八日町

荒城あらき川と十三墓岐じゆうさんぼぎ川の合流点にあり、東は西門前にしもんぜん村、西は漆垣内うるしがいと村。戦国期には当村北西山上に高原たかはら郷に本拠を置く江馬氏の出城梨子打なしうち城があった。梨子打城は「飛州志」に「高原諏訪城主江馬常陸之助輝盛持分」とある。「飛騨国中案内」によれば、天正一〇年(一五八二)輝盛は三木自綱・小島時光の連合軍に攻められ、家臣川上縫殿助・同左衛門尉ら一三人が自害したという。この墓を十三墓といい、当村北方十三墓峠登り口に残る。


八日町村
ようかまちむら

[現在地名]湯川村桜町さくらまち

東はせせなぎ川を境として高畑たかばたけ(現河東町)、南は森台もりだい村。集落は東西に長く街道に沿う。本村の東一町余に端村の高橋たかはしがある。地籍図や航空写真により古代条里の跡が認められた。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高七四〇石余。代々肝煎役を勤めた栢木家には、慶長一五年(一六一〇)の文書と、同一八年の訴状が蔵されていた(新編会津風土記)。文化一五年(一八一八)の村日記では高七二〇石余。化政期の家数は本村三三・高橋四(新編会津風土記)。幕末に東西二村に分村し、旧高旧領取調帳によれば、東八日町村は高三六二石余、西八日町村は高三六四石余。


八日町村
ようかまちむら

[現在地名]富山市八日町・上八日町かみようかまち

熊野くまの川が村内中央を貫流し、右岸南東は最勝寺さいしようじ村。天正一四年(一五八六)飛騨国大野おおの郡八日町村(現岐阜県高山市)から国侍藤瀬氏が移住してきたのが村名の由来という(藤瀬家文書)。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。藤瀬氏は富山藩の十村役を勤めた。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高二九〇石、免四ツ七歩、小物成は鮎川役一八匁。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳によると、親村の黒崎くろさき村の西三町にある枝村新田で高四四四石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高二三二石余・定免五ツ三歩、新田高三石余・平均免一ツ四厘余、小物成は鮎川役一二匁・簗役六匁。


八日町村
ようかまちむら

[現在地名]高山市八日町

川上かわかみ川の左岸、前原まえばら村の南にある。高山からの高山街道を対岸新宮しんぐう村で西にそれ、同川に架かる橋を渡って村へ入る。真宗大谷派秋声しゆうせい寺の蓮如が下付した本尊の文明一八年(一四八六)裏書に「大野郡河上庄荻野」とある。荻野おぎのは寺の現在地より上流の白山神社辺りの地名で、寺の旧地といい、同寺は古くは荻野道場とよばれた。慶長一〇年(一六〇五)の飛騨国郷帳では川上郷に村名がみえ、下林しもばやし村など四村で高付されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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