八条村(読み)はちじようむら

日本歴史地名大系 「八条村」の解説

八条村
はちじようむら

[現在地名]下京区裏片町うらかたまち小坂こさか町・薬園やくえん町・二人司ににんつかさ町・諏訪開すわひらき町・夷馬場えびすのばんば町・西酢屋にしすや町・和気わけ町・観喜寺かんきじ町・八条坊門はちじようぼうもん町、南区八条はちじよう町・東寺とうじ町・東寺東門前とうじひがしもんぜん町・九条くじよう町・四ッ塚よつづか町・八条はちじよう内田うちだ町・てらうち町・坊門ぼうもん町・みなもと町〉

北は中堂寺ちゆうどうじ村、東は町地(西本願寺寺内町及び七条出屋敷)及び西九条にしくじよう(現下京区・南区)、西は朱雀すじやく梅小路うめこうじ唐橋からはし(現南区)の各村、南は西九条村にそれぞれ接する。平安京の条坊標示では左京八条一坊及び九条一坊の全部、七条一坊の五町・六町・九町から一二町及び七町・八町の東半分、一四町から一六町の西側一部の地。延暦一五年(七九六)羅城門の東に、左京・東国の鎮護として造営されたとう(教王護国寺)は村域内にある(南区の→東寺

「拾芥抄」東京図には同村域内左京七条一坊五町・一二町の地に「狗狗町」、八条一坊に「仁安元入道大相国清盛公家」の記述があるが、後者は平清盛の西八条にしはちじよう邸である。

平安時代から鎌倉時代にかけて、村域内で土地売買が行われたことが現存する文書により判明するが、その早い例が次にあげる延喜一二年(九一二)の七条令解(東寺百合文書)である。


八条村
はちじようむら

[現在地名]八潮市八条

現八潮市の北端、古利根川(中川)右岸の自然堤防上に集落が発展した村で、南はつる曾根そね村・二町目ちちようめ村、西は青柳あおやぎ村・たてほり(現草加市)など、北は柿木かきのき(現同上)、東は古利根川を境に葛飾郡彦糸ひこいと村・彦音ひこおと村・彦成ひこなり村・上彦名かみひこな村・上彦川戸かみひこかわど村・下彦川戸村・彦野ひこの村・彦倉ひこくら(現三郷市)などに接する。地名の由来は古代の条里にちなむといわれ、「玉石雑誌」は荒川(現元荒川)の南岸より二〇条の条里区分がなされているとしており、「八潮市史」は地籍図によって八条周辺の条里遺構の様子を復元している。字入谷の八条殿いりやのはちじようでん(現八幡神社)は「風土記稿」に「塚上ヲ平ケシ所ヨリ石槨ノ著シ様、古墳ナルコト知ラル」と記されるが、その後の乱掘で古墳の遺構をとどめていない。中世は八条郷に含まれていた。近世初頭まで奥州道の宿場であったが、のち草加宿が日光道中の宿場と定められたため在方となるが、その後も江戸下妻道の中継地として大原だいばら村、吉川よしかわ(現吉川町)、草加宿、下総流山宿への馬継ぎを行った。


八条村
はちじようむら

[現在地名]南区八条町・東寺とうじ町・東寺東門前とうじひがしもんぜん町・九条くじよう町・四ッ塚よつづか町・八条〈内田うちだ町・てらうち町・坊門ぼうもん町・みなもと町〉

葛野かどの郡に属す。北は中堂寺ちゆうどうじ(現下京区)、東は町地(西本願寺寺内町及び七条出屋敷、現下京区)及び西九条村、西は朱雀すじやく梅小路うめこうじ(現下京区)唐橋からはしの各村、南は西九条村にそれぞれ接する。平安京の条坊では左京にあたり、八条一坊及び九条一坊の全部、七条一坊の五町・六町・九町―一二町及び七町・八町の東半分、一四町―一六町の西側一部の地。このうち梅小路以北は現在下京区にあたる(下京区の→八条村。この地には、平安遷都に伴って、羅城門らじようもんの東に、左京・東国の鎮護としてとう(教王護国寺)が造営され、また藤原基経・信清それに平清盛の西八条邸(下京区の→西八条邸跡など、多くの邸宅が営まれた地域でもある。


八条村
はちじようむら

[現在地名]奈良市八条町

佐保川の東方、大安寺だいあんじ村の西南にある。天暦四年(九五〇)一一月の東大寺封戸荘園并寺用帳に「平城左京田畠九町一段三百(中略)八条市庄畠一町二段廿歩 西市地百廿歩」とみえる。文永六年(一二六九)一一月の浄真水田売券に「沽却 私領水田新券文事 合壱段半者 字大宮流在大和国添上郡平城左京七条二坊三坪」とある「流」は現小字ながれであろう。延久二年(一〇七〇)の興福寺雑役免帳の京南路西八条一里の慈恩寺じおんじ一夜松山いちやまつやまの地名も小字地恩寺じおんじ・同一夜松山として残る。


八条村
はちじようむら

[現在地名]長浜市八条町

本庄ほんじよう村の北東、よこ山の支脈の臥竜がりゆう山西麓にある。「木間攫」は八条・上八条に分れており、村名は条里の地割からついたとする。中世は福能部ふくのべ庄のうち。天文七年(一五三八)の六角定頼陣立注文(朽木文書)に「八条 高野瀬 山崎」とある。天正三年(一五七五)羽柴秀吉は当地などの年貢半租を免じている(三月三日「羽柴秀吉書状」清水文書)。同一一年の藤九郎・藤三郎壱職売券(福永文書)では壱職(作職)が八条の兵介に売渡されている。


八条村
はちじようむら

[現在地名]真岡市八条

五行ごぎよう川と小貝こかい川の間、西田井にしだい村の西に位置し、村の北西は東郷ひがしごう田島たじま両村の中間に長く突き出している。慶安郷帳には村名がみえず、元禄郷帳・天保郷帳に東郷村枝郷と記される。寛永四年(一六二七)、真岡藩主として入封した稲葉正成若色わかいろ(東郷)に別館を建てて住み、その地を八条と名付けたことから地名が起こり、のちに村名となったという(山前村郷土誌)。初め真岡藩領、寛永九年相模小田原藩領、天明三年(一七八三)幕府領。寛文一〇年(一六七〇)の村々明細帳(渡辺善兵衛文書)によれば、田高五〇石余・畑高五二石余、反別田八町三反余・畑一六町三反余、年貢米一〇石八斗余・永六貫余、家数一二・人数六六、馬四、寺一。


八条村
はちじようむら

[現在地名]神戸町八条

和泉いずみ村の北に位置する。「新撰美濃志」は「印行の美濃国図に八丈とかけり」として、「新猿楽記」にみえる「美濃八丈」、「神鳳鈔」にみえる「八丈絹」が当地付近で織出されたことから地名に転訛したのであろうとしている。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録(京都大学蔵古文書集)に美濃国の国衙領の一つとして「八条郷重兼」がみえるが、安八・大野両郡のどちらに所属したかは不明。当地がその遺称地とも考えられる。年未詳一二月二六日の斎藤利尚書状(瑞雲寺文書)の宛所は「平野八条瑞雲寺」となっており、寺領を安堵されている。


八条村
はちじようむら

[現在地名]大和郡山市八条町

佐保川東岸、宮堂みやんどう村北方に所在。環濠集落慶長郷帳にみる村高五三五・六二石。慶長六年(一六〇一)以降竜田藩(片桐且元)領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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