出雲国一円本田新田一紙郷帳(読み)いずものくにいちえんほんでんしんでんいつしごうちよう

日本歴史地名大系 の解説

出雲国一円本田新田一紙郷帳(元禄十年出雲国郷帳)
いずものくにいちえんほんでんしんでんいつしごうちよう

一冊

成立 元禄一〇年

原本 広島大学附属図書館

解説 出雲国松江藩領一〇郡にわたり各村ごとに元禄一〇年の村高(内高としての寺社領高を含む)、および「寛文四辰郷帳」の本田高・新田高、「貞享元子郷帳」の出来新田高、貞享元年より元禄一〇年までの年々開発高、さらに検地耗年々洪水永否無取高、元禄一〇年の村高から前記無取高を差引いた残高、残高の内訳としての本田高・新田高を記す。郡ごとに総計し、末尾に全松江藩領の総計を示すとともに、「右者出雲国十郡本田新田一紙郷帳村別如斯御座候、并同氏上野助・同氏美作守配知分村分ケ別帳書注之指上之候 以上」と記して「元禄十年」の年紀を添えているが、月日の記載はなく、指上形式にもかかわらず差出人・宛名人の記載もない。藩側の下帳ないし控帳ではなかったかと推測される。墨付は三七八枚。なお前記の上野助(広瀬藩)分・美作守(母里藩)分の別帳は現在まで確認されていない。

本帳は松江藩が元禄一四年六月に幕府に提出したいわゆる元禄郷帳(現存せず)とは著しく異なる形式のもので、むしろ将軍の代替りごとに行われた印知にあたって幕府に提出した郷村高辻帳に近い。もちろん元禄一〇年前後に将軍の代替りはないが、将軍綱吉が越後騒動を再審した結果、関係者であった広瀬藩を処罰して三万石を半知したのが天和二年のことであった。その後、貞享三年に五千石、元禄七年に一万石が加増されて旧に復したが、これに伴う印知に対して本帳ならびに広瀬・母里両藩のものを作成提出したとも考えられる。なお本帳記載の松江藩領の村は村数・表記とものちの天保郷帳にほぼ一致するが、同藩が実際の支配単位としていたとみられる「雲陽大数録」記載の村数に比べてかなり少ない。これは藩が幕府へ報告した村の把握とは別に、一定の高以上の村を東・西、上・下に分けるなど、実態に合せていたためであろう。

本来は松江藩庫に架蔵されていた帳簿の一つであったが、明治維新後に広島税務監督局が中国地方の土地・租税資料を接収したとき同局に移り、第二次世界大戦後に広島国税局が広島大学へ寄贈したため、現在は同大学附属図書館に中国五県土地・租税資料として架蔵されている。しかし広島大学へ寄贈される以前の段階で本帳の破損が著しかったためか、解綴して袋綴一丁ごとに半紙を挿入したうえで綴直しの補修が施されたようであるが、その際にはなはだしい乱丁が生じ、現在もそのままである。この乱丁状態は島根県がこれをマイクロフィルム(島根県立図書館蔵)化した時に判明し、昭和四〇年代後半から藤澤秀晴がこの復元作業に着手。初めはまったく見当のつけようもない状態であったが、そのうち島根県立図書館所蔵の「出雲国領知郷村高辻帳」と本帳が近似のものであることが判明。この高辻帳は奥書に「任寛文四辰年例書注之差上候」とあり、天保九年閏四月一二日に松江藩主松平出羽守が本多下総守・牧野備前守宛に差出したものの控で、将軍徳川家慶の代替りの印知にあたって作成したものである。原則的な拠り所が判明してからは復元作業がはかどり、「島根県の地名」の刊行にあたって一〇郡全体にわたっての復元作業を完了した。なお掲載にあたっては原史料の欠落・省略個所を補正している。これによって幻の郷帳であった寛文郷帳所載の本田・新田高、同じく貞享郷帳の一部が知られることとなり、その後の開発高や無取高の状況をも明らかにすることが可能となった。活字化はされていないが、表示形式で島根郡分が「美保関町誌」、意宇郡分は「八雲村誌調査報告」第二集、神門郡分は「大社町史研究紀要」一号、楯縫郡・飯石郡分は「山陰―地域の歴史的性格」、出雲郡分は「斐川町史」に掲載されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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