西ローマ帝国(読み)にしろーまていこく(英語表記)Western Roman Empire

日本大百科全書(ニッポニカ) 「西ローマ帝国」の意味・わかりやすい解説

西ローマ帝国
にしろーまていこく
Western Roman Empire

395年から476年までのローマ帝国西半部をさす呼称。395年テオドシウス1世(在位379~395)は死に際し帝国東部を長子アルカディウス(在位395~408)に、西部を次子ホノリウス(在位395~423)に残した。帝国の分治はディオクレティアヌス(在位284~305)の四分統治制以後はむしろ常態で、国法的には395年に帝国が東西に「分裂」したわけではないが、現実には以後帝国東部と西部は別個の道をたどる。

 西ローマ帝国では、ゲルマン系諸族の侵入が相次いだ。401年アラリック麾下(きか)の西ゴート人が北イタリアに侵入。一方、406~407年にはバンダル人、アラマン人、スエビ人がガリアを席捲(せっけん)してスペインに入った。412年西ゴートもガリアに侵入したが、ウァレンティニアヌス3世(在位425~455)治下の429年アフリカに渡ったバンダルは、439年にはカルタゴを占領した。ブリタニアピクト人、スコット人、サクソン人らの手に落ちた。451年、アッティラ麾下のフン人がガリアに攻め入ったが、将軍アエティウスはカタラウヌムの戦いでこれを撃退した。455年にテオドシウス朝が断絶すると、西ローマ帝位には、ゲルマン人武将傀儡(かいらい)帝や、東ローマ帝が送り込む皇帝が相次いだ。476年、オドアケルが幼帝ロムルス・アウグストゥルス(在位475~476)を廃位して帝冠を東ローマ帝に返還した。この事件が一般に西ローマ帝国の「滅亡」とされるが、ゲルマン系諸族の勢力急伸の前に、この時点で西部の政府が支配していたのはわずかにイタリア、ラエティア、ノリクムの一部にすぎなかった。

 東ローマ帝国が1453年まで存続するのに対し、西ローマ帝国が消滅した背景としては、まず東西の経済力の問題がある。帝国東部は人口、経済力の点で西部に勝り、帝国歳入の約3分の2は東部からあがっていた。4世紀の西部はある程度の繁栄を回復するが、その富は少数の名門貴族の手に集中、これら大土地所有貴族が高官位をほぼ独占し、中小農民を隷属化して、その所領は自立性を強めていく。かかる状況に加えて、西部政府の直接支配領がゲルマン系諸族によって蚕食されていったことは、税収の急速な枯渇を意味した。軍事力についても、たとえば425年ごろの西ローマ軍の兵力が25万弱であるのに対し、同時期の東ローマの兵力は約35万であったように、東部は数的にも勝っていた。これに加え、東部政府は国民軍の維持とその向上に努めたが、西ローマ軍は財政状態の悪化とも相まって急速に弱体化し、ゲルマン同盟部族への依存度を強めた。カタラウヌムの戦いにおいても、参加した西ローマの正規軍は少数にすぎなかった。東西の分化は文化面にも認められ、4世紀には西部の知識人でギリシア語を解さない者が増え、キリスト教会内でも、西部の司教たちは帝権と教会との関係について東部より厳格な態度を保持した。

 西ローマ帝国という政治的統一体が消滅したあとには、カトリック教会、自立的大所領内で延命したローマ貴族層およびその隷属的農民、そしてゲルマン諸王国が残り、以降東方とは異なる西欧世界を形成していく。長く優位を保っていた東方に対するその西欧世界の自己主張が、「ローマ理念」と結び付いて、フランク王カール大帝の戴冠(たいかん)(800)による西ローマ帝国の復興へとつながるのである。

[後藤篤子]

『弓削達著『永遠のローマ』(『世界の歴史3』所収・1976・講談社)』『ジャン・レミ・パランク著、久野浩訳『末期ローマ帝国』(白水社・文庫クセジュ)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「西ローマ帝国」の意味・わかりやすい解説

西ローマ帝国
にしローマていこく
Western Roman Empire

395年ローマ皇帝テオドシウス1世の死後東西に2分されたローマ帝国のうち,ホノリウスが受継いだ帝国の西半分 (イタリア,スペイン,北アフリカ) を呼ぶ。政治の実権はほとんどゲルマン諸部族の武将に握られ,皇帝は乱立し,首都ローマも再三劫略された。アフリカにはバンダル族が建国し,一時名将 F.アエチウスがフン王アッチラを破るなどの活躍を示したが,皇帝権はまったく衰退し,476年ロムルス・アウグスツルス帝がゲルマン傭兵隊長オドアケルに廃位されて滅亡した。

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