日本大百科全書(ニッポニカ) 「メロビング朝美術」の意味・わかりやすい解説
メロビング朝美術
めろびんぐちょうびじゅつ
5世紀末から8世紀なかばに至るフランク王国のメロビング朝における美術。クロービス1世(在位481~511)は、王妃クロチルデの勧めでカトリックに改宗したため、ローマ教会との結び付きを密にした。したがって、広義にはビザンティン美術によって継承された古代末期の美術の影響下にあるが、フランク王国を構成する二つの種族、南西のガロ・ロマン人と北東のゲルマン人によってそれぞれ異質の美術が芽生え、やがて融合に向かっていった跡をたどることができる。すでにキリスト教が普及していた南西部では修道院および教会が美術の推進力となったが、異教的な北東部ではゲルマンの王宮や貴族の館(やかた)が美術の揺籃(ようらん)となった。そして、それはフランク王国の次の王家、カロリング朝の美術に受け継がれていく。
古代ローマの石造建築の伝統は、修道院制度の発達に伴って造営された大小の修道院建築に発揮された。回廊による僧房の組織的な配列は後世永く範を残している。広く普及した古代ローマ末期のバシリカと並んで、新しい教区教会や墓地教会が単純な方形の広間として出現した。同時に聖公会や洗礼教会が多角的な平面プランの上に造営されたものと推定される。これら教会建築で現存するものはポアチエ、フレジュスなどの洗礼堂、ジュアール、グルノーブルなどのクリュプタ(地下聖堂)と数少ないが、発掘や文献によって補うことができる。コリント式の柱頭、ビザンティン風の内陣格子など、建築装飾の部分も発掘されている。石棺や墓石には信仰の証(あかし)としてキリスト教の象徴的な記号や聖なる場面が陰刻もしくは平浮彫りされているが、それらはしばしば古代末期の伝統にたつ植物文で縁どられている。そのほか、金属工芸、写本絵画、象牙(ぞうげ)細工なども祭礼の道具の装飾に奉仕している。魚、鳥、小動物で構成した十字架や文字をもつ『ゲラシウスの典礼書』(750ころ、バチカン図書館)はその一例である。
一方、フランク王宮では、ゲルマン貴族の風習に従って三つの分野の芸術家たちがとくに珍重された。金の細工師、竪琴(たてごと)の伴奏で英雄や神々の賛歌を歌う歌手、壁掛けの織物を織る織女である。これらの人々は、初めは異教の祭礼、のち宮廷の祝祭に花を添えたものと理解される。壁掛けは現存しないが、それが王宮や貴族の館、6世紀以降は教会をも飾ったという記録がある。金細工はかなり多くが出土しており、それらにはゲルマンの典型的な動物文が施されているものが多い。王宮の華やかさはチルデリヒ1世(在位458~481)やアルネグンディス王妃(520ころ―565ころ)の墓の遺宝によって知られている。チルデリヒ1世の武具や礼服には金に象眼(ぞうがん)されたざくろ石の装飾がみられ、当時の金属工芸の発達がしのばれる。幻の名工エリギウス(金工師の守護聖人)の名も伝わっている。ブロンズ鋳造では、折り畳みの脚をもつダゴベールの王座(7世紀・パリ国立図書館メダイユ部)の傑作がある。
8世紀になるとキリスト教と異教との対立はしだいに解消し、フランク王族の墓地にキリスト教の墓石が刻まれ、またロマン人の石工や金工師もゲルマン的な装飾文を取り入れるようになる。タッシロ公爵の高脚杯(777ころ・クレムスミュンスター、ベネディクト教団)はその一例である。
[野村太郎]