日本大百科全書(ニッポニカ) 「前古典派音楽」の意味・わかりやすい解説
前古典派音楽
ぜんこてんはおんがく
西洋音楽史における前古典派Vorklassik(ドイツ語)、preclassics(英語)は、バロックから古典派への過渡期で、古典派の書法、形式、楽種を開発、育成していった作曲家たちをさす。狭くは、マンハイム楽派や北ドイツ楽派が活躍する1740年ごろから、ハイドンが本格的に創作を開始する1760年ごろまでの時期、とも考えられる。しかし、古典派の器楽を代表する交響曲と古典派の中心形式となるソナタ形式に関して、近年の研究は、すでに1730年代までにはその輪郭をもった作品が作曲されている事実を明らかにしている。また、一般に初期古典派とよばれる1760年ごろから1780年ごろまでのハイドンとモーツァルトの作曲活動を振り返るとき、前古典派の作曲家たちと同じ試行錯誤がみいだせる。こうした観点にたつとき、前古典派の時期を1730年ごろから1780年ごろまで、と拡大解釈すべきであるように思われる。同時に、イタリアのボッケリーニ(1743―1805)、オーストリアのディッタースドルフ(1739―99)、パリで活躍したゴセック(1734―1829)などのように、ハイドンと同時代に活躍しながらも、様式的に前古典派の作曲家たちと同一視される場合が少なくない。
前古典派は、ポリフォニーとホモフォニーが共存したバロックとは対照的に、和声法によるホモフォニーを中心とした新しい様式を、またバロックの協奏曲や組曲の形式にかわってソナタ形式を開発し、交響曲をはじめとする新しい諸楽種を育成していった。バロックや古典派と重なるこの時期、ロココ様式あるいはギャラント・スタイル、感情過多様式あるいはシュトゥルム・ウント・ドラングなどさまざまな様式が共存し、それぞれ異なる音楽環境をもつヨーロッパ各地で、歩調を異にして、多数の作曲家による多彩な音楽が生み出された。
イタリアでは、前古典派の特質を最初に示すとともに、交響曲の前身となるシンフォニアとよばれる歌劇の序曲が案出された。交響曲とソナタ形式の発展に関して、G・B・サンマルティーニ(1700/01―75)がとくに注目される。
ドイツでは、ベルリンのプロイセン国王フリードリヒ2世(1712―86)の宮廷を中心に活躍したベルリン楽派(北ドイツ楽派)が、バロックの伝統を色濃く残しながらも、新しい様式による表現をくふうしている。とくに、バロック、古典派、そして初期ロマン派の様式的特徴をも兼ね備えたといわれるC・P・E・バッハ(1714―88)が傑出している。同時期、南西ドイツのプファルツ選帝侯カール・テオドール(1724―99)の宮廷でマンハイム楽派が活躍する。マンハイム楽派を代表するJ・シュターミッツ(1717―57)の優れた才能と選帝侯の進歩的な趣味が一致して、技術的に優れたオーケストラを生み出し、マンハイム・クレッシェンドをはじめ、数々のオーケストラ効果を誇った。
ハイドンに直結する当時のウィーンの音楽家たちはウィーン楽派とよばれるが、傑出した作曲家がおらず、バロックと前古典派が共存していたところに、古典派が成立しえた一つの原因があるように思われる。ドイツ、オーストリアの音楽の中心の場が宮廷であったのに対し、パリとロンドンは早くから公開演奏会や楽譜出版が盛んで、国際的な音楽都市になっていた。パリのショーベルト(1735ころ―67)やロンドンのJ・C・バッハ(1735―82)のように、外国人作曲家の活躍が目だっている。
[中野博詞]