劉伯承(読み)リュウハクショウ

デジタル大辞泉 「劉伯承」の意味・読み・例文・類語

りゅう‐はくしょう〔リウ‐〕【劉伯承】

[1892~1986]中国軍人四川省開県(現在の重慶市開州区)の人。1926年中国共産党入党。モスクワ軍官学校留学後、紅軍総参謀長として長征指揮。中国軍屈指の戦術家として知られる。人民共和国成立後、要職歴任。リウ=ポーチョン。

リウ‐ポーチョン【劉伯承】

りゅうはくしょう(劉伯承)

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精選版 日本国語大辞典 「劉伯承」の意味・読み・例文・類語

りゅう‐はくしょうリウ‥【劉伯承】

  1. 中国の軍人。四川省出身。一九二六年、中国共産党に入党。南昌蜂起では軍事委員会参謀長。日中戦争では第一二九師団長。一九四五年以降、党中央委員。人民共和国成立後、国防委員会副主席、党中央政治局委員などを歴任。(一八九二‐一九八六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「劉伯承」の意味・わかりやすい解説

劉伯承
りゅうはくしょう / リウポーチョン
(1892―1986)

中国の軍人、政治家。四川(しせん)省生まれ。1926年中国共産党入党。1927年南昌蜂起(なんしょうほうき)に参加。1928年モスクワ軍官学校に留学。帰国後、1932年紅軍総参謀長として長征を指揮、中国きっての戦略家との評価を受け、日中戦争中は八路軍一二九師長を務めた。1945年党中央委員。内戦でも活躍。1949年西南軍政委員会主席。1955年元帥。1956年以後、党中央政治局委員を務めた。

[加藤祐三]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「劉伯承」の意味・わかりやすい解説

劉伯承
りゅうはくしょう
Liu Bo-cheng

[生]光緒18(1892).12.4. 四川,開
[没]1986.10.7. 北京
中国の軍人。 1926年中国共産党に入党。北伐に参加し,27年の南昌暴動に際し軍事委員会参謀長。 28年モスクワ赤軍軍官学校に留学,30年帰国。紅軍総参謀長として長征に参加。抗日戦争中の 37年に八路軍の第 129師長,戦後第2野戦軍司令。 49年中華人民共和国成立にあたり,西南軍政委員会主席。 54年国防委員会副主席,69年党中央委員,中央政治局委員に選ばれた。軍の長老の一人で,65年6月軍の階級制度廃止までは元帥であった。 73年の十全大会で中央委員,中央政治局委員に再選され,74年中央軍事委員会副主席,75年第4期全国人民代表大会常務委員会副委員長,77年十一全大会でも中央委員,政治局委員に選ばれた。 82年すべての職務から引退

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世界大百科事典(旧版)内の劉伯承の言及

【八路軍】より

…1927年創建された紅軍は37年8月国共再合作がなると国民革命軍に改編された。華北にあった主力は第八路軍(国民党政府はのち戦時編成として第十八集団軍に改称したが,中国共産党側は八路軍の名を愛用し,一般民衆から〈八路〉とよばれた)に改編,第115師(長林彪),第120師(長賀竜),第129師(長劉伯承)の3個師編成とされた。八路軍は抗戦初期日本軍が華北のほとんど全域を席捲すると,空白となった敵後方に進出して,〈基本的には遊撃戦だが,運動戦もゆるがせにしない〉方針で活動し,人民を組織して根拠地を建設するという長期持久の人民戦争戦略をとった。…

※「劉伯承」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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