日本大百科全書(ニッポニカ) 「劉聡」の意味・わかりやすい解説
劉聡
りゅうそう
(?―318)
中国、五胡(ごこ)十六国時代、漢(後の前趙(ぜんちょう))の第3代の皇帝(在位310~318)。劉淵(りゅうえん)の子。諡(おくりな)は昭武帝。廟号(びょうごう)は烈宗。兄の劉和を殺して帝位を奪うと、翌年には、一族の劉曜、匈奴(きょうど)族の呼延晏(こえんあん)、羯(けつ)族の石勒(せきろく)、および漢人の王彌(おうび)らに命じて西晋(せいしん)の都洛陽(らくよう)を攻め落とし、懐帝を捕らえた(永嘉(えいか)の乱)。さらに316年には愍(びん)帝を長安に捕らえ、西晋を滅亡に追い込んだ。国内では漢人を司隷(しれい)によって、また匈奴族をはじめとする諸民族を単于輔(ぜんうほ)によって統治した。劉聡は残忍な性格で酒色にふけり、かつ不思議な自然現象が絶えなかったという。そのために彼の死後、その子劉粲(りゅうさん)が外戚(がいせき)の靳準(きんじゅん)に殺され、漢は滅亡したが、靳準の勢力を倒した一族の劉曜が長安に拠(よ)って前趙(318~329)を建てた。
[關尾史郎]
『谷川道雄著『隋唐帝国形成史論』(1971・筑摩書房)』▽『内田吟風著『北アジア史研究 匈奴篇』(1975・同朋舎出版)』