4世紀初頭より約1世紀半,中国華北に分立興亡した国家群,あるいはその時代をいう。主権者の多くは五胡すなわち匈奴(きようど)・羯(けつ)(匈奴の一種)・鮮卑(東胡系)・氐(てい)(チベット系)・羌(きよう)(チベット系)の非漢族で,これまでの漢族による中国統治の流れを大きく変えた時代である。また牧畜・狩猟民族と農耕社会との接触が深まり,それが政権の形成にまで発展した,文化史上特色ある時代である。なお実際の王朝の数は16を超える。
春秋戦国時代に始まる中国の政治的統一の方向は漢帝国に至って頂点に達するが,北方遊牧世界を主宰する匈奴の勢力も,この時期にいっそう強大さを増した。農業と遊牧の両世界は,緊張した対峙関係のもとで交戦と和親をくりかえす。その結果,漢文化の匈奴社会への浸透が進むと,最初武力的に優勢であった匈奴側の民族的団結が緩み,単于(ぜんう)位をめぐる抗争が深まった。後漢初,匈奴は南北両勢力に分裂し,南匈奴は漢に帰降した。北匈奴は漢と南匈奴の連合軍に攻撃されて西方に移動し,その一部は黒海沿岸に出現して(フン族),ヨーロッパ民族大移動の原因となったといわれる。匈奴勢力の衰退は,中国と周辺諸民族との関係を変革した。まず漢の庇護下に入った南匈奴は政治的独立を失い,魏・晋時代には中国側の監視の下で山西一帯に部落生活を営んだ。また,前漢以来河西回廊地帯が漢の手に帰したことは,氐・羌族と匈奴との連係を絶つ結果となり,漢の討伐を受けて降伏する部落が増加した。漢はこれらを甘粛,陝西,四川などの内地に移住を強制した。一方東北方面では,興安嶺東麓を故地とする鮮卑諸部が匈奴に代わって西進を試み,中国社会との接触を深めた。
以上のような経過はいわば中国のなかの胡族社会を作り出す。氐族の部落民が日常氐語と漢語の二重言語生活者であったのは,そのことを最もよく表している。しかし少数民族の常として,彼らは事ごとに漢族の蔑視と圧迫を受けた。長期にわたる中国社会との接触は,その部落組織を弛緩解体させてゆく傾向にあった。こうした彼らの悲境は,おりにふれてその民族的抵抗を生んだ。2世紀初頭における羌族の反乱は後漢王朝に大きな打撃を与えた。魏・晋時代になると,飢餓と戦乱がいっそう胡族の生活を脅かし,危機は深まった。4世紀初頭,西晋八王の乱に乗じて,南匈奴の劉淵が挙兵して匈奴国家漢(のち趙と改む。前趙)を建設し,四川では氐族の李雄が成漢を建てた。ついで漢は西晋の首都洛陽を占拠し,漢族社会は大混乱におちいった(永嘉の乱)。漢族政権は江南に亡命をよぎなくされ(東晋),ここに華北は五胡十六国時代となる。
前趙は一時,関中(渭水盆地)一帯をも占領したが,匈奴の一派羯族出身の石勒に併呑された(後趙)。しかし後趙もやがて混乱状態におちいった。これに乗じて遼西方面から鮮卑族慕容部が河北に侵入して燕国を建立した(前燕)。一方,関中方面には氐族の苻氏が興って,秦王朝を建てた(前秦)。鮮卑族は,匈奴・羯・氐・羌の被征服民と異なり,いわば外部から中国に侵入したものであり,燕の華北支配は,胡族の自立運動が中国の外延にひろがったことを意味した。しかし,前燕は前秦に併呑され,華北は前秦によって統一された。これよりさき,河西地方でも,涼州を拠点に漢族の張氏が自立し,甘粛から高昌に至る一帯を領有した(前涼)。しかし前秦はこれも手中に収めたので,中国北半部の広大な地域における統一帝国をなし,その治安もゆきとどいた。しかしさらに東晋を併呑して中国再統一を実現しようとした前秦皇帝苻堅の夢は,淝水の敗戦でついえ去った。
華北は再び混乱におちいり,東方では慕容部が国家再建をはかり(後燕),前秦の本拠関中では羌族姚氏が勃興した(後秦)。河西地方では氐族呂氏が後涼を興したが,やがて鮮卑の南涼と匈奴の北涼が分離し,北涼からはまた漢族の西涼が独立して,これらの国々は互いに抗争した。東晋政権はおりにふれて華北奪回の遠征を試み,東晋末,劉裕(宋の武帝)は一時長安,洛陽などの要地を占領したが,結局放棄した。最終的に華北の統一に成功したのは,鮮卑族の拓跋部であった。拓跋部は山西北辺から中国進出を企て,拓跋珪(道武帝)のとき後燕を破って河北を手中に収め,魏(北魏)を建てた。さらに第3代太武帝(拓跋燾(たくばつとう))は,夏,北涼,北燕など五胡諸国家を征服,5世紀半ばに華北全土が平定されて,五胡十六国時代は終わった。
五胡の諸国家は,種族主義的色彩の濃い国家であった。たとえば劉淵の挙兵時には,無道な晋朝の奴隷的な待遇をくつがえして,栄光ある匈奴国家の復興を目ざすという理念が掲げられた。それを裏書きするように前趙では,胡族は部落ごとに編成されて,郡県制下の漢族とは異なる扱いを受け(胡漢二重体制),国軍兵士の供給源となった。国軍は帝室一族によって分統され,塞外時代の部族連合を再現する形をとった。このような胡族の最高管理者が大単于で,帝室中の最有力者がこれに充てられた。しかし漢族社会の支配者でもある皇帝(あるいは天王)は,大単于の権威に優越する存在で,この点は部族連合と異なる。つまり前趙の国家は,胡族の政治的軍事的優位の下で胡漢両世界を含むものであり,いわば中国のなかの胡族国家であった。この二重構造は基本的には他の王朝でも変わりがない。したがって漢族士大夫を登用して行政に当たらせることが行われ,聡明な胡族君主が有能な士大夫を信任して股肱とし,士大夫の方も君主の知遇を得て国事に身命を捧げた。石勒と張賓(?-322),苻堅と王猛(325-375)がその好例であり,そのようなとき国家は安定し繁栄した。しかし宗室による国軍の分統体制はしばしば内紛を生み,ついには政権の崩壊に結果した。五胡十六国時代に終止符を打った北魏が帝国建設に先立って部落解散を行ったのは,この点で大きな意味をもつ。
この時代は政治的動揺がはげしかったが,文化的に価値のない時代ではなかった。むしろ中国の政治的分裂は,漢代以来の儒学の伝統を各地方に温存するという結果を生んだ。また各政権は漢族の学者を用いてそれぞれの国史を編纂した。それらは現存していないが,後世《十六国春秋》や《晋書》載記などに取り入れられ,この時代の歴史叙述に寄与した。この時代の文化として特記すべきは,仏教である。胡族の君主は中国固有の儒教よりも西方伝来の仏教を好む傾向があったので,西域僧は諸政権と結びついて伝道や訳経事業を推し進めた。石勒・石虎の尊信を受けて後趙国内に布教した仏図澄,後秦治下で訳経に不朽の業績を立てたクマーラジーバ(鳩摩羅什)などがその著名な例である。これら西域僧の活動は,中国社会に仏教を根づかせた。道安や法顕などの漢人高僧が生まれ,また漢訳仏典によって教義の理解が容易となって,中国仏教は本格的な段階を迎えた。このような西域仏教の華北伝来を可能にしたのは,その経路に当たる涼王国各政権の仏教尊信であった。道教の活動も見のがせないものがあるが,とくに氐族李氏の漢は,道士范長生(?-318)を宰相に任じて政権を固めた。
この時代は,しばしばヨーロッパにおける民族大移動の時代になぞらえられるが,ローマ帝国に比すべき漢帝国の崩壊,異国の宗教である仏教の普及,そして胡族による政治支配等々,さまざまの点で価値の転換が起こった時代であった。しかしそれは従来の価値体系の単なる裏がえしではない。胡族の政治的優位のもとで胡漢両社会の融合をうながした時代であって,ヨーロッパのローマ風・ゲルマン風文化になぞらえて,漢族風・胡族風文化とよぶ学者もある。それは胡族にとって伸長の時代であったと同時に,漢族にとっても自己を変容しつつ質的成長をとげた時代であった。この両世界の融合は,いわゆる東アジア世界形成の核となり,のちの唐の世界帝国を準備する。
執筆者:谷川 道雄
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4世紀から5世紀初めの中国北部に興亡した国家群、ならびにその時代名。五胡とは匈奴(きょうど)、羯(けつ)(匈奴の別種)、氐(てい)(チベット種)、羌(きょう)(チベット種)、鮮卑(せんぴ)(トルコ種説が強い)をさすが、十六国中には漢人の国も含まれる。
[窪添慶文]
匈奴の劉淵(りゅうえん)が漢王を称し、巴蛮(はばん)(氐の一種)の李雄(りゆう)が成都王を称し、304年、五胡十六国時代が始まる。漢は311年に洛陽(らくよう)を陥落させて懐帝を捕らえ(永嘉(えいか)の乱)、316年には長安を落として愍帝(びんてい)を捕らえ、西晋(せいしん)を滅ぼした。その後は、南方に東晋があり、華北には五胡諸国の争覇という状況が続くが、五胡の争覇の過程では東西に二大勢力が対立する傾向がみられる。すなわち、前趙(ぜんちょう)(漢の改称)に対しては、もと劉淵の武将であった石勒(せきろく)の建てた後趙が襄国(じょうこく)に都を置いて対抗し、勝ち残った後趙が内部崩壊したあとは、鄴(ぎょう)に拠(よ)る慕容(ぼよう)氏の前燕(ぜんえん)と、長安に拠る前秦(ぜんしん)が対峙(たいじ)し、五胡第一の名君と評される苻堅(ふけん)統治下で前秦が前燕を倒し、ついで代、前涼(ぜんりょう)2国をも滅ぼして376年に華北統一に成功、西域(せいいき)にも勢力を広げる。しかし中国統一を賭(か)けた東晋遠征に383年淝水(ひすい)で敗れると、前秦支配下の各種族は一斉に独立に向かい、400年の時点で9国が分立するという極度の分裂状態を現出した。そのうち中心となったのは前燕の系譜を引く後燕と長安に拠る後秦であったが、旧代国の後身である北魏(ほくぎ)が前者を中原(ちゅうげん)から駆逐して強大化し、439年には華北統一に成功、五胡十六国時代に幕を下ろす。以後は、東晋にかわって420年江南に成立していた宋(そう)と北魏が対峙する南北朝時代に入る。
[窪添慶文]
十六国以外にも、短命の西燕、魏や北魏の前身である代の諸国があり、さらには丁零(ていれい)の翟(てき)氏などの小政権がみられ、この時代は政治的分裂を第一の特色とする。しかし五胡の活動のみがそれを引き起こしたのではない。黄巾(こうきん)の乱から三国分立と、2世紀末よりすでに分裂の様相は深く、それは豪族勢力の伸張という中国社会内部の変化と深い関係をもっていた。その背景のなかで直接に五胡の蜂起(ほうき)を触発したのが八王の乱による晋の中央政府の弱体化であり、しかも八王らは異民族の武力を導入して互いに争ったのである。
また五胡諸族は、多く漢以降の中国の対外発展の結果として中国の支配下に取り込まれた存在である。1世紀に後漢(ごかん)に下って長城南辺に置かれた南匈奴は、3世紀には山西省全域に分布し、西方の氐や羌も後漢の討伐を受け甘粛(かんしゅく)や陝西(せんせい)に移されていた。しかも南匈奴にみられるように漢人に圧迫され隷属的地位に落とされていた。蜂起はそのような状況における自立性回復の試みであった。
このように中国社会の内部的、対外的発展の招いた矛盾が五胡時代を生んだといえよう。
[窪添慶文]
この時代における特色の第二は、胡族による漢族支配の成立にある。支配種族を中心とする非漢族(胡族)が、遊牧時代の部族制を維持しつつ組織され、国軍の主要構成員として胡族による支配の中核を形成する。国軍を分掌するのは多く宗室の一員である諸王である。一方、漢族に対しては多くの場合、秦・漢以来の郡県制を適用し、官僚を媒介とする統治を行った。漢族と胡族と形態を異にする二重支配体制が実施されたわけであり、その全体を統治したのが皇帝もしくは天王であった(王や公の称号にとどまった国もある)。なお胡族を統治する称号として前・後趙などでは大単于(ぜんう)があったが、前燕では帝号をとるとともに廃されるなどその存否は一定せず、かつそれへの就任者が皇太子など次期皇帝候補者であることにみられるように、皇帝号の下位に置かれていた。ところで、以上の体制は、国軍を分掌する諸王の内部抗争によって動揺しやすく、五胡の諸国はおおむね短命に終わらざるをえなかった。その弱点のいちおうの解決は、部族解散を断行した北魏をまたねばならなかった。
五胡の諸国は漢人統治の必要上、漢人豪族を地方官や将軍に任じてその秩序維持能力を利用する一方、積極的に知識人を登用した。後趙の石勒(せきろく)の設けた君子営は著名であって名臣張賓(ちょうひん)を出し、前秦の制覇には漢人名宰相王猛の寄与が大きい。なお、五胡諸国においては、征服地域の人民や兵士を国都の周辺に移(徙(うつ))して自らの支配を固める徙民(しみん)政策が多くとられていることにも留意する必要がある。
五胡の諸君主は一般に仏教に深い関心を示した。後趙が仏図澄(ぶっとちょう)に対したような高僧のもつ神異的能力の利用、あるいは人心の収攬(しゅうらん)を図ったのであるが、その結果仏教の盛行を招いた。敦煌(とんこう)の石窟(せっくつ)の開かれたのは前秦統治時期においてであった。君主の尊崇を受けた僧としては、ほかに前秦の道安、後秦の鳩摩羅什(くまらじゅう)が名高く、とくに後者の訳経事業は貴重である。
五胡時代は政治的分裂を特色とするが、胡族という新要素を含み、隋(ずい)・唐へつながる第一歩を記した時代として評価すべきであろう。
[窪添慶文]
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304年劉淵(りゅうえん)の建国から,439年北魏の統一まで,華北に興亡した五胡および漢人の国々,あるいはその時代。その間前秦の苻堅(ふけん)による統一がなりかけたが,淝水(ひすい)の戦いで瓦解した。五胡とは匈奴(きょうど),羯(けつ),鮮卑(せんぴ),氐(てい),羌(きょう)をいい,十六国は次表のとおりである。国名民族始祖年代漢→前趙匈奴劉淵304~329後 趙羯石勒319~351前 秦氐苻健351~394後 秦羌姚萇384~417西 秦鮮卑乞伏国仁385~431前 燕鮮卑慕容皝337~370後 燕鮮卑慕容垂384~409南 燕鮮卑慕容徳398~410北 燕漢馮跋409~436前 涼漢張軌301~376後 涼氐呂光384~403南 涼鮮卑禿髪烏孤397~414北 涼匈奴沮渠蒙遜397~439西 涼漢李暠400~421 夏匈奴赫連勃勃407~431成→漢氐李特304~347
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