中国,後趙の創建者。幼名(はい)。上党郡武郷県(山西省武郷県)地方にあった羯(けつ)族部落の小酋長の家に生まれ,少年時代から族人の間に信望があった。しかし南匈奴に従って南遷してきた羯族は,当時漢人の蔑視と経済的困窮のなかにあり,石勒も飢餓に苦しんだ末,西晋の軍閥によって山東方面の地主に売り飛ばされて奴隷となった。八王の乱の情勢が深まるなかで,彼は自己の英雄的資質に目ざめ,馬賊仲間に身を投じて各軍閥のもとを転々とした末,劉淵(漢)に帰属した。石勒という姓名を名のるのはこのころからである。洛陽攻略に参加し,西晋の残存勢力を一掃して華北東半部を平定,329年(太和2)長安に拠る劉曜を滅して華北全域を手中に収めた。翌年襄国(河北省邢台県)を首都として趙国皇帝の位についた。石勒は漢族士大夫張賓の補佐によって善政をしき,彼自身は無学であったが,学問を尊重した。漢族を虐待することはなかったが,胡族蔑視には厳罰をもって報いた。その死後,遺体はいずくとも知れぬ山谷に埋められたが,これは羯族の風習であったらしい。
執筆者:谷川 道雄
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中国、五胡(ごこ)十六国時代、後趙(こうちょう)の初代の君主(在位319~333)。匈奴(きょうど)系の羯(けつ)族の出身で、山西省武郷県付近の小部族の首長(しゅちょう)の家に生まれたが、若くして漢人の奴隷に転落した。さらに群盗の仲間に入ってその首領となり、八王の乱に乗じて勢力を伸ばしたが、劉淵(りゅうえん)が漢の帝位につくと彼に降(くだ)り、永嘉(えいか)の乱では劉曜や王彌(おうび)らと活躍した。しかしその後、襄国(じょうこく)〔河北省邢台(けいだい)県付近〕を拠点として山東、河南、および河北を経略し、しだいに漢から自立する傾向を強め、漢が靳準(きんじゅん)によって滅ぼされると、長安にあった劉曜の前趙に対抗して自ら趙王の位につき、後趙を建てた。のち前趙を滅ぼして関中をも併合すると、趙天王を経て帝位についた(330)。彼は律令(りつりょう)を制定したり歴史書の編纂(へんさん)事業をおこして、中国の伝統的な制度や文化を尊重した。漢人と羯族以下の諸民族の区別を明らかにしたのもそのような姿勢の表れである。また仏図澄(ぶっとちょう)を礼遇して仏教の普及にも貢献した。
[關尾史郎]
『谷川道雄著『隋唐帝国形成史論』(1971・筑摩書房)』
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274~333(在位319~333)
五胡十六国の後趙(こうちょう)の建国者。羯(けつ)人で,漢人の奴隷や群盗の首領をへて,劉淵(りゅうえん)の武将として山東,河南を征服した。淵の族子劉曜(りゅうよう)が前趙を建てると,319年自立して後趙を建て,30年前趙を滅ぼして帝を称した。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…後趙ともいう。羯(けつ)族の石勒(せきろく)ははじめ前趙に臣属していたが,前趙の混乱に乗じ華北地方東半部を蚕食して趙王国を建て,前趙を併呑して330年(建平1)帝位についた。後趙は鄴(ぎよう)(河南省安陽県)を首都としてほぼ華北全土を領有し,第3代石虎のとき匈奴系国家として最盛期にあった。…
※「石勒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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