加納町(読み)かのうまち

日本歴史地名大系 「加納町」の解説

加納町
かのうまち

荒田あらた川の北岸、旧岐阜町の南方に位置。加納藩城下町、および中山道の宿として幕末に至る。中世には一帯平田ひらた庄のうち加納郷が成立していた。また室町時代には美濃国守護代斎藤氏の加納城があった。「土岐累代記」に、往古は加納を「沓井吉田」と号したとある。

〔町の成立〕

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の合戦直後、徳川家康が岐阜城を廃止して加納城を新たに築造し、女婿奥平信昌(一〇万石)城主に据えたことにより成立。加納城の新設は、それまでの岐阜街道(名古屋街道とも)に代わって中山道が主要な通路になりつつあり、同街道の管理掌握を家康が重視した結果と考えられる。加納城の北の丸の内にあたる部分が中山道を扼するところに位置しているのはその一証拠といえよう。そのため当町は城下町であると同時に中山道の宿でもあり、その宿が町を特徴づけていた。それは町場の景観にも現れ、町の西半は中山道沿いに本町ほんまち筋があり、東半も中山道・岐阜街道・笠松かさまつ(御鮨)街道が交差する北広江きたひろえ町から八幡はちまん町までの町筋が中山道沿いに延びていた。

関ヶ原の合戦のとき家康を手引した土豪達に築城の手伝いを命じたり、当地や河渡ごうど沓井くつい水野みずのなどの土豪や商人などを集めて町建設が行われた。岐阜町からも来住したが、岐阜城の楼閣や石垣が加納城に移築・利用されたようには、岐阜町の商工業者を移動させて加納町建設が行われるということはなく、このことが当町の発展を特徴づけたし制約もした。城下町としての加納は、上・下の加納村の一部を割いて設定された。上加納村の四五七石余が「御城下引地」となり、また従来小熊おぐま村地内であった一六〇石弱と下加納村のうち四七六石余の合せて六三四石余が「御城廻奉公人町屋敷」となったという(加納町史)。町の面積ははっきりしないが、宝暦五年(一七五五)の加納駅諸事覚帳(徳川林政史研究所蔵)によれば、下加納村の本高九三四石余のうち四〇〇石余が加納駅(宿)で永引(永久控除)となっている。町方は元禄六年(一六九三)に正式編入の九町目を含めて二一町であった。同一六年には清水しみず町が下加納村から分郷された。同町は清水町清水西しみずにし町・清水片端しみずかたはし通・清水金具屋しみずかなぐや町・清水鍛冶屋しみずかじや町の五町に分れる。宿役を負担しなかったため、加納町の正式な構成町にはならなかったが、加納町に接続する町場として認められた。このように元禄期に町が拡大し、宿役を負担する役家も四八九軒前後と、一八世紀末以前ではいちばん多くなった。


加納町
かのうまち

[現在地名]姫路市南町みなみまち立町たてまち十二所前町じゆうにしよまえちよう

姫路城南西の外曲輪に位置する町人町新身あらみ町東部の南にある。慶長六年(一六〇一)の町割で成立。元和(一六一五―二四)頃の姫路城下図(多木文化振興会蔵)下銀子屋しもぎんすや(下白銀町)と「南片町」(新身町)となっており、慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の侍屋敷新絵図には「内たうふ町」とある。元禄一七年(一七〇四)の姫路城城下町数飾万津町数覚(伊藤家文書)にも内豆腐うちとうふ町とある。これは飾万津しかまつ町内の外豆腐そととうふ町に対して付けられたものである。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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