勝浦庄(読み)かつうらのしよう

日本歴史地名大系 「勝浦庄」の解説

勝浦庄
かつうらのしよう

現徳島市勝占かつうら町・丈六じようろく町・方上かたのかみ町・多家良たから町および小松島市北部の田浦たうら町・中田ちゆうでん町・江田えだ町などを含む地域に比定される庄園。元久元年(一二〇四)九月日の富田庄立券文案(春日大社文書)津田つだ島の四至として「南限勝浦庄堺」とあり、当庄の北部は津田島に接していた。また観応三年(一三五二)五月二〇日の飯尾吉連等軍忠状写(碩田叢史)には「勝浦庄内中津峰」とみえることから、中津なかつ峰の山塊をも庄域に含んでいたことが知られる。

寛和三年(九八七)二月一日の東大寺家符案(東南院文書)に「阿波国新嶋・勝浦・枚方等庄々」とみえ、昨年およびそれ以前の地子物を寺家使者に引渡すこと、当年の散田を割付けることが命じられている。奈良東大寺領勝浦は新島にいじま庄に次いで開発されたとみられる(→新島庄。地子徴収が困難である圃について同寺に報告した承和一一年(八四四)一〇月一一日の阿波国牒(同文書)にみえる「勝浦郡地」三九町にあたると考えられ、「右地、自昔為江、公私無利、不由徴地子、使等所明」と述べられている。ここから東大寺領勝浦庄は勝浦川河口に近い湿地帯を占めていたとも推定される。寛和三年以後東大寺領勝浦庄について記す史料はみえない。

当地は「平家物語」巻一一(勝浦付大坂越)にみられるように、元暦二年(一一八五)二月摂津渡辺わたなべ(現大阪市)を出帆した源義経軍が上陸したとされる場所にあたっており、軍勢を整えたとされる勢合せいごう(現小松島市田野町)軍旗を掲げたとされる旗山はたやま(現同市芝生町)など、義経伝説にまつわる地名が残る。「吾妻鏡」文治元年(一一八五)二月一八日条には渡辺津から「阿波国椿浦」に着いたとあるが、同書吉川本では「桂浦」とあり、「椿浦」は「桂浦」の誤記であると考えられている。

平安末期には勝浦庄は京都仁和寺御室領となっており、御室御所高野山御参籠日記(高野山文書)久安三年(一一四七)五月二〇日条には、塔供養の際大僧供料米として京都仁和寺御室(白河上皇皇子覚法法親王)から紀州高野山寺家に付せられた一〇〇石のうち、七〇石が勝浦庄分であったことが記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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