日本歴史地名大系 「勝浦庄」の解説
勝浦庄
かつうらのしよう
現徳島市
寛和三年(九八七)二月一日の東大寺家符案(東南院文書)に「阿波国新嶋・勝浦・枚方等庄々」とみえ、昨年およびそれ以前の地子物を寺家使者に引渡すこと、当年の散田を割付けることが命じられている。奈良東大寺領勝浦は
当地は「平家物語」巻一一(勝浦付大坂越)にみられるように、元暦二年(一一八五)二月摂津
平安末期には勝浦庄は京都仁和寺御室領となっており、御室御所高野山御参籠日記(高野山文書)久安三年(一一四七)五月二〇日条には、塔供養の際大僧供料米として京都仁和寺御室(白河上皇皇子覚法法親王)から紀州高野山寺家に付せられた一〇〇石のうち、七〇石が勝浦庄分であったことが記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報