日本歴史地名大系 「北庄村」の解説 北庄村きたしようむら 大阪府:堺市北庄村[現在地名]堺市南清水(みなみしみず)町一―三丁・錦綾(きんりよう)町一―三丁・北庄町一―三丁・南庄(みなみしよう)町一―二丁・北向陽(きたこうよう)町一―二丁・中向陽(なかこうよう)町一―二丁・南向陽(みなみこうよう)町一―二丁・北花田口(きたはなだぐち)町一―三丁・今池(いまいけ)町一―六丁・北田出井(きたたでい)町一―三丁・中田出井(なかたでい)町一―三丁・南田出井(みなみたでい)町一―四丁・田出井(たでい)町・東雲西(しののめにし)町一―四丁・東雲東(しののめひがし)町一―四丁・浅香山(あさかやま)町一―三丁堺町の北部東側にあり、南の中筋(なかすじ)村境を長尾街道が通る。村の東部は洪積台地、西部は沖積平野となっている。 北庄村きたのしようむら 滋賀県:近江八幡市北庄村[現在地名]近江八幡市北之庄町(きたのしようちよう)多賀(たが)村の北に位置し、同村との境には西(にし)の湖が湾入する。西は鶴翼(かくよく)山を隔てて南津田(みなみつだ)村。朝鮮人街道から長命(ちようめい)寺へ向かう通称長命寺道が通る。古代条里の遺称とされる八(はち)ノ坪(つぼ)・六(ろく)ノ坪(つぼ)などの小字名が残る。鶴翼山中、北(きた)谷の寺院跡は現多賀町興隆(こうりゆう)寺の旧地であったという。文永一〇年(一二七三)一一月一五日の沙弥円仏田地売券(大島・奥津島神社文書)によれば奥島(おくしま)庄内にあった円仏私領田地の四至は「南限北庄」であった。 北庄村きたのしようむら 徳島県:美馬郡脇町北庄村[現在地名]脇町北庄(きたしよう)猪尻(いのしり)村の北に位置し、南西は脇町、北は岩倉(いわくら)山・曾江(そえ)山。北荘、また北ノ庄・北ノ荘などと記した。地名は中世の庄園に由来するといわれるが、明証する史料は残されていない。天正一三年(一五八五)七月一三日蜂須賀家政は「きの庄村」における放火・立毛刈取などを禁じる禁制(蜂須賀家文書)を鎌田縫之助に与えている。この「きの庄村」を当地とみる説がある。正保国絵図や寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳などに記載はない。 北庄村きたのしようむら 京都府:亀岡市北庄村[現在地名]亀岡市千代川(ちよかわ)町北ノ庄南東は湯井(ゆい)、北東は拝田(はいだ)、東は田を隔てて千原(ちわら)・小川(おがわ)の村々。西は峠を越えて神前(こうざき)村へ続く。西の山腹に後期古墳一一基が確認されている。村落の東の田の中に、桑寺(くわでら)廃寺跡・大将軍(だいしようぐん)遺跡があり、周辺一帯から須恵器片や瓦片が採集され、国府跡の一つに推定されている。天保一二年(一八四一)の「桑下漫録」によれば高七〇五石、戸数一〇〇、旗本能勢惣右衛門知行地。農作は五穀のほか綿・百合根なども作った。村内の嶺松(れいしよう)寺(浄土宗)の裏山に八ッ岩(やついわ)権現という、巨岩に二一体の仏像を小円の中に彫った磨崖仏があり、村民と熊野信仰にかかわる伝えが残る。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by