日本歴史地名大系 「花岡鉱山」の解説
花岡鉱山
はなおかこうざん
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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秋田県北部、大館市(おおだてし)にあった鉱山。わが国有数の黒鉱(くろこう)鉱山。発見は1885年(明治18)で、銀を採掘した。1916年(大正5)堂屋敷鉱床が発見され、以来全国でも屈指の鉱山に数えられるようになった。松峰、深沢、餌釣(えづり)の3鉱床があり、粗鉱採掘量は約84万トンであった(1980)。鉱石は小坂(こさか)、細倉(宮城県)、彦島(山口県)の各精錬所に送られ、金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄、マンガンなどに精錬された。1994年(平成6)閉山。
[宮崎禮次郎]
第二次世界大戦時、花岡鉱山の労働者1万数千人のうち、強制連行されてきた中国人労働者は986人を数えた。重労働、食糧不足、虐待、落盤により140人が死亡した。1945年(昭和20)6月30日夜、鹿島組(かじまぐみ)(現、鹿島)花岡出張所中山寮で病弱者を除く約800人の中国人が、宿直員5人を殺傷して逃亡。1週間後には全員が連れ戻されたが拷問により113人が死亡。首謀者は戦時騒擾(そうじょう)罪で起訴、終戦後の9月11日に秋田地裁で1人に無期懲役刑、10人に10年以下の懲役刑の判決がおりた。日本側の責任者は極東軍事裁判にかけられ、絞首刑3人、終身刑1人、重労働20年の刑2人の判決を受けた(のち全員仮出所)。
終戦後も鉱山の待遇は悪く、さらに180人の中国人が死亡。日中友好協会が遺骨を中国に返還し、現地には「日中不再戦友好碑」「中国殉難烈士碑」が建てられた。その後、中国の生存者、遺族が花岡受難者連誼会を結成。1989年に同会が「公開書簡」を発し、鹿島に対して、謝罪、記念館の設置、補償の3項を要求。1990年鹿島が謝罪を表明、しかし個人補償を拒否したため、1995年東京地裁に提訴。しかし、提訴まで50年近く経過していたため損害賠償請求権が消滅しており1997年に行われた1審判決では原告側が敗訴。1999年の2審で、長引く裁判に対して東京高裁が職権により和解を勧告。2000年9月裁判長が鹿島に、中国に被害者補償基金を設立するなどの和解案を提示。11月、鹿島が中国赤十字会に総額5億円を信託し、「花岡友好基金」を設立することにより、和解が成立した。
[宮崎禮次郎]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
秋田県大館市にあった鉱山。新第三紀中新世の西黒沢階に相当する火山噴出物中の層状,塊状の黒鉱鉱床を採掘している。酸性火山岩,凝灰岩,白色化流紋岩を母岩とし,黒鉱(銀,鉛,亜鉛を主とする),黄鉱(銅を主とする),ケイ鉱(銅,硫化鉄などを含む),セッコウ鉱などの種々のタイプの鉱床が存在する。明治初期の発見で,かつては堂屋敷鉱床を中心に盛大に稼行されたが,その後採鉱の主力は1963年に発見された松峰鉱床に移り,さらに深沢鉱床,餌釣鉱床など,周辺の鉱床の鉱石の処理も行ってきた。しかし91年,円高による金属価格の低下により終掘した。かつては高品位で経済価値の高い鉱石として知られていたが,軟弱な岩盤中に存在するため,採掘には高度の技術を必要とした。
執筆者:山口 梅太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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