日本歴史地名大系 「黒木村」の解説
黒木村
くろきむら
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答院町史)。元弘三年(一三三三)一一月一〇日付の渋谷重利証状と同日付渋谷重棟・同重利連署去状(ともに入来院文書)の包紙に「くろき中津河」とみえる。応永七年(一四〇〇)一二月二一日には
答
答院重茂から同族の清敷殿(入来院重頼)に避り渡されている(「渋谷重茂避状」同文書)。同一〇年一二月一三日入来院重頼に宛てた島津元久契状(同文書)によれば、東郷氏・柏原氏が同心したならば、東郷氏には黒木など三ヵ所を宛行い、それ以外の当知行地はそのまま重頼のものとすると述べている。享徳元年(一四五二)九月一日に
答院の検田は、一〇月二〇日までの間に黒木などを終えている(寛正五年「平徳重覚書」町田氏正統系譜)。
黒木村
くろきむら
- 福島県:相馬市
- 黒木村
正保郷帳では田方四一二石余・畑方二五三石余。明暦二年(一六五六)の高七五二石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高四六八石余。なお、元禄検地高は九七五石余、ほかに新田七二石余がある(奥相志)。
黒木村
くろぎむら
正徳二年(一七一二)の村明細帳(黒木家文書)によれば田高四七石余・反別五町一反余、畑高四九石余・反別一〇町三反余、ほかに新地の田高三石余・反別五反余、畑高二石余・反別二町余。伐野六反余があり、地子銀一九匁余を納めていた。また樹木代丁銀九四匁余・真綿銀二五一匁余のほかに切漆・椿実・堅炭などを銀で上納、椎茸・蕨粉・勝栗などは現物で納めていた。
黒木村
くろぎむら
黒木村
くろきむら
黒木村
くろぎむら
南は
黒木村
くろぎむら
黒木村
くろぎむら
黒木村
くろぎむら
黒木村
くろぎむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報