黒木村(読み)くろきむら

日本歴史地名大系 「黒木村」の解説

黒木村
くろきむら

[現在地名]答院町黒木

大村おおむら上手かみで村の北にあり、南方みなみかた川支流の大王だいおう川と黒葛つづら川流域を中心に、東西に長く広がる。東から南東は矢止やどめ連峰を境にして大隅国始羅しら山田やまだ北山きたやま(現姶良町)と同郡蒲生かもううるし(現蒲生町)、北西から西は佐志さし広瀬ひろせ(現宮之城町)、北は大村郷南方村(現薩摩町)。村名は往古この地がクロキの異名をもつ柾の繁茂する地域であったことに由来するとの言伝えがある答院町史)。元弘三年(一三三三)一一月一〇日付の渋谷重利証状と同日付渋谷重棟・同重利連署去状(ともに入来院文書)の包紙に「くろき中津河」とみえる。応永七年(一四〇〇)一二月二一日にはけどう院内中津川なかつがわ(現薩摩町)と黒木村が答院重茂から同族の清敷殿(入来院重頼)に避り渡されている(「渋谷重茂避状」同文書)。同一〇年一二月一三日入来院重頼に宛てた島津元久契状(同文書)によれば、東郷氏・柏原氏が同心したならば、東郷氏には黒木など三ヵ所を宛行い、それ以外の当知行地はそのまま重頼のものとすると述べている。享徳元年(一四五二)九月一日に時吉ときよし(現宮之城町)あな川口より始められた島津氏による答院の検田は、一〇月二〇日までの間に黒木などを終えている(寛正五年「平徳重覚書」町田氏正統系譜)


黒木村
くろきむら

[現在地名]相馬市黒木

小泉こいずみ川上流域の平地部に位置し、西と南と北は台地をなす。東は小泉川を隔てて中村・小泉村・石上いしがみ村、南は小野おの村。浜街道が小泉村から入り、字まちを貫通して北の大坪おおつぼ村に至る。字町の南端を御門みかど川、北端を水無みずなし川が流れ、両川が合流して小泉川となる。御門川の源は字どうだいらの堂ヶ平堤、水無川は西の初野はつの村字南萱倉みなみかやぐらに発する萱倉川の下流部をさす。南北朝期から黒木氏が居城とした黒木城の存在が知られる。総士禄高調の文禄二年(一五九三)の項に「百三拾壱貫八百三拾文 黒木」とみえるのは黒木城に属した采地で、ほかに「一三貫六四五文 黒木分」とある。

正保郷帳では田方四一二石余・畑方二五三石余。明暦二年(一六五六)の高七五二石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高四六八石余。なお、元禄検地高は九七五石余、ほかに新田七二石余がある(奥相志)


黒木村
くろぎむら

[現在地名]北郷村黒木

高平たかひら(四六六・八メートル)の東麓に位置し、南西は入下にゆうした村、北西は宇納間うなま村、北は北方きたかた(現北方町)、東は川内かわち(現門川町)。天正一六年(一五八八)八月四日の日向国知行方目録に「三段 黒木」とみえ、高橋元種領となっている。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)では高九一石余。万治四年(一六六一)延岡藩村高内検高覚でも同高、内検高は九二石余。元禄五年(一六九二)の延岡藩郷村高帳写(三浦家文書)では高九一石余・出高四石余、新田高二石余・出高一石余。門川組に属した。寛文一三年(一六七三)の麻苧割方帳(黒木家文書)によると畑高四八石余で、麻苧六貫七〇四匁を納めていた。元禄一六年の勘文(同文書)によると年貢は米二八石余・銀八四匁余。

正徳二年(一七一二)の村明細帳(黒木家文書)によれば田高四七石余・反別五町一反余、畑高四九石余・反別一〇町三反余、ほかに新地の田高三石余・反別五反余、畑高二石余・反別二町余。伐野六反余があり、地子銀一九匁余を納めていた。また樹木代丁銀九四匁余・真綿銀二五一匁余のほかに切漆・椿実・堅炭などを銀で上納、椎茸・蕨粉・勝栗などは現物で納めていた。


黒木村
くろぎむら

[現在地名]美星町黒木

現美星町域の南端、東流する星田ほしだ川の中流右岸の高原に位置する。北は星田村、東は宇内うない(現矢掛町)。古くは宇内村の惣山で、同村の山守たちが開拓、元和三年(一六一七)には宇内村検地帳に載り、寛永三年(一六二六)には大黒木おおくろぎ谷・小黒木おくろぎ谷を村域に高三〇石余の枝村として宇内村より分れ、検地帳も別冊となった(延享五年「惣百姓連印状写」中原文書)。正保郷帳では高六四石余、幕府領、枝村として篠谷ささや(笹谷)村が載る。


黒木村
くろきむら

[現在地名]郡山市中田町黒木なかたまちくろき

牛縊本郷うしくびりほんごう村の東に位置し、阿武隈高地西側の峡谷間のわずかな平坦地に集落がある。永禄一一年(一五六八)七月吉日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「三段 三百文 くろ木」、天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(同文書)にも同内容で黒木とみえる。字大坂おおさかに鎌倉時代末頃のものとみられる石塔三重の供養塔があり、付近に南北朝期初め頃とみられる三基の石造供養塔がある。この地は太子堂跡とも、釈迦堂跡とも伝承している。天正年間に築かれたとされる黒木館跡がある。


黒木村
くろぎむら

[現在地名]奥津町黒木

南は土生はぶ村、西の富東谷とみひがしだに(現富村)に至る小道がある。吉井川を挟んで河内こうち村の対岸の河岸段丘上に細長く展開する。正保郷帳に高二七二石余、うち田方二〇九石・畑方六三石余とある。「作陽誌」では家数五四・人数三〇二。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高七五石余・開高一七石余。享保一一年(一七二六)津山藩の減封により幕府領となり、延享二年(一七四五)から宝暦四年(一七五四)の間因幡国鳥取藩預地、再び幕府直轄となり、明和七年(一七七〇)から安永三年(一七七四)の間大坂城代久世領、再度幕府領となり、文化一四年(一八一七)津山藩領、天保九年(一八三八)幕府領津山藩預地となる(「美作国郷村支配記」など)


黒木村
くろぎむら

[現在地名]白石町大字馬洗もうらい

杵島山系のつま山の東、神辺こうのえ村の西にある。黒木町ともよばれた街村。正保絵図に村名がみえる。

鎌倉時代は稲佐いなさ城主日向氏(のちの白石氏)の所領で、室町時代の初め平井氏の領地となったが、天正二年(一五七四)竜造寺氏のため平井氏は滅亡し、竜造寺氏の所領となった。


黒木村
くろぎむら

[現在地名]川崎町安真木あまぎ

荒平あらへら村の南東に位置する。元和八年人畜改帳や国絵図類などに村名はみえないが、宝永四年(一七〇七)の田川郡本田郡鑑(猪膝手永中村家文書)では高三一石とある。しかしほとんどの史料に村名はみえず、基本的に東の安宅あたか村に含まれていたとみられる。


黒木村
くろぎむら

[現在地名]下市町大字黒木

丹生にう川の左岸、貝原かいばら村の東に立地。丹生郷のうち。慶長郷帳では村高一二七・八二石、幕府領(代官大久保長安)。のち延宝検地により村高は三二七・六七八石となった。村内の玉泉ぎよくせん(浄土真宗本願寺派)はもと禅宗、文正年間(一四六六―六七)に改宗。


黒木村
くろぎむら

[現在地名]大洲市黒木

ひじ川の支流伴造ばんぞう川西岸地域、標高二〇〇―三〇〇メートルの丘陵上の小村。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)喜多きた郡の項に「黒木村 茅山有」とあり、村高九三石余。大洲藩領。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」によれば、米・大豆・薪の土産がある。


黒木村
くろきむら

[現在地名]大宇陀町大字黒木くろぎ

本郷ほんごう村南方の谷間村落。慶長郷帳による村高四七二・一六石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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