戦況悪化を受け、国が都市部の国民学校初等科の子どもたちを、郊外や農村部に一時移住させた措置。親戚らを頼る縁故疎開が原則だったが、1944年夏から学校単位の集団疎開を推進した。米軍の空襲に備えて防空態勢を強化し、将来の戦力を温存することが目的だった。対象は全国で数十万人。米軍侵攻が現実的となった沖縄では、旧日本軍が国民学校の校舎を使い、食糧供給を安定させる必要もあったため、熊本と大分、宮崎の九州3県に計約5600人が疎開した。
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第二次世界大戦末期、アメリカ軍による日本本土爆撃に備え、大都市の国民学校初等科児童を集団的、個人的に農村部へ、半強制的に分散移動させた措置をいう。急激な戦局悪化に伴い、1943年(昭和18)末から児童の「縁故疎開」に便宜を図る措置がとられ、また東京都にあっては1944年4月から、縁故のない児童のための疎開学園設置が進められていた。同年6月15日、アメリカ軍がサイパン島に上陸するや、政府は「学童疎開」を「強度ニ促進スル」必要に迫られた。同月30日、政府は「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することにした。「集団疎開」はさしあたり、東京都区部の国民学校初等科3年以上6年までの児童を対象とし、「保護者ノ申請ニ基」づいて行われることになった。同年7月、疎開都市として、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎(あまがさき)、名古屋、門司(もじ)、小倉、戸畑、若松、八幡(やはた)の12都市が追加指定された。この結果、福岡県下5都市を除いて、約35万人の児童が、8月から9月にかけて、約7000か所の旅館、寺院などに集団疎開した。
1945年(昭和20)、東京大空襲直前の3月9日、政府は「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、「学童疎開ノ徹底強化ヲ図ル」ため、初等科3年以上の児童についてはその全員を疎開させ、1、2年の児童については、縁故疎開を強力に勧奨するとともに、集団疎開の対象に加えることにした。また、同年4月には、疎開都市に京都、舞鶴(まいづる)、広島、呉(くれ)の4都市を追加指定した。こうして、集団疎開する児童は約45万人となった。その間、沖縄県など戦域諸島の児童も疎開することとされ、約1万3000人が疎開させられたが、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸(つしままる)」が、1944年8月22日、米軍潜水艦に撃沈され、乗船者約1800人のうち、児童779人を含む1476人が犠牲となるという事件も発生した。集団疎開した児童の教育に関しては、文部省国民教育局長通牒(つうちょう)「集団疎開学童ノ教育ニ関スル件」(1944)が発せられているが、実態は食糧確保に追われ、「必勝ノ信念ヲ培ヒ」、「教員ヲ中心トスル家庭的和楽ノ裡(うち)ニ薫化ノ実ヲ挙ゲル」どころではなかった。集団疎開からの復帰が完了したのは、終戦後の1945年11月のことである。
[三原芳一]
『浜館菊雄著『シリーズ戦争の証言4 学童集団疎開』(1971・太平出版社)』▽『創価学会青年部反戦出版委員会編『学童疎開の記録』(1977・第三文明社)』▽『山中恒著『ボクラ少国民第四部 欲シガリマセン勝ツマデハ』(1979・辺境社)』
太平洋戦争の末期,不利な戦局下で予想された空襲の被害を避けるために,大都市の国民学校初等科児童を個人または集団で農村地帯に移住させたことをいう。連合軍による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年12月〈都市疎開実施要綱〉が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられたが,長距離爆撃機B29による空襲が激しくなる中で大都市児童の生命を守るために44年6月〈学童疎開促進要綱〉が決定された。この決定により〈縁故疎開〉を原則としつつ,それが不可能な国民学校初等科3~6学年の児童を半強制的に〈集団疎開〉させた。同年夏,東京ほか12の該当都市が指定され学校ごとに近郊農村地帯への移動が始まり,45年春には全国で約40万人を超える児童が疎開したといわれる。十分な準備もなく親もとから離れて寺社,公会堂,旅館などに収容された疎開児童たちの生活は授業どころではなく,食料,衣料,衛生用品の不足のために病気やノミ,シラミの発生などに悩まされつづけた。悪条件下での軍国主義的共同生活は,戦局の悪化にともない児童と教師の心理状態を圧迫し,多くの混乱,対立,不信,苦悩をもたらすとともに,疎開先の住民との間にも軋轢(あつれき)を生み出した。学童疎開は戦禍から都市児童の生命を一定数守ったとはいえ,〈教育者のたちばから見たときは,完全な失敗だった〉(浜館菊雄《学童集団疎開》1971)といわれ,疎開中家族を失った児童は敗戦と同時に戦災孤児,浮浪児となる受難の歴史であった。
→疎開
執筆者:増山 均
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太平洋戦争末期に重要都市の国民学校初等科児童を疎開させた政策。戦局が悪化するなか,政府は空襲時の混乱を避け,戦意の衰えを防ぐために計画。縁故を有する児童は個人的に,他の大多数の児童は集団的に疎開した。1944年(昭和19)6月の閣議で一般および初等科児童の疎開促進が決定され,東京をはじめ18都市における初等科3年以上6年までの児童を対象とした疎開が実施された。8月には第1陣が出発,翌年には対象範囲が拡大され,約46万人が7000カ所に疎開したといわれる。社寺や旅館に寝泊りしたが,親元を離れての慣れぬ長期間の集団生活のうえに,食糧不足や疎開先の人々との人間関係のむずかしさもあり,児童にとってはつらい体験であった。
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…人員疎開も,43年の都市疎開実施要綱の決定から強化されたもので,その主眼点は防空や生産に関係ない老人や婦女子を都市から疎開させることにあり,青壮年など勤労動員の対象となっている人々の疎開は許可されなかった。組織的な人員疎開は,44年夏から本格化した学童疎開によって開始された。【粟屋 憲太郎】。…
※「学童疎開」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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