十二神社(読み)じゆうにじんじや

日本歴史地名大系 「十二神社」の解説

十二神社
じゆうにじんじや

[現在地名]天理市竹之内町小字明神山

竹之内たけのうち集落の東方山麓に鎮座祭神国常立くにのとこたち尊・国狭土くにのさづち尊・豊斟渟とよくむぬ尊・泥土煮うひじに尊・沙土煮すひじに尊・大戸道おおとのじ尊・大戸辺おおとのべ尊・面足おもだる尊・惶根かしこね尊・伊弉諾いざなぎ尊・伊弉冉いざなみ尊・大日おおひるめむち尊。旧村社。口碑によると、元来当社は「延喜式」神名帳山辺やまべ郡の「夜都伎ヤツキノ神社」で、乙木おとぎ(現天理市)の産土神であったが、社地を竹ノ内村の三間塚さぎづか池と交換したため竹ノ内領となったという。


十二神社
じゆうにじんじや

[現在地名]鳴門市里浦町里浦

紀伊水道に突き出したいわし山の南西里浦町里浦さとうらちようさとうら北端の字坂田さかたにある。主祭神は応神天皇、ほかに一三柱の神を合祀する。古くは八幡宮と称し(「鳴門辺集」など)、仁和三年(八八七)に豊前宇佐宮より勧請された古社と伝えられている。正平一七年(一三六二)讃岐国白峰しらみね(現香川県坂出市)で挙兵した細川清氏に対し、細川頼之は備中国から帰国して当社において戦勝祈願を行い、白峰に清氏を攻めて滅ぼした。その後同二三年に社殿を造営し神像を奉納したと伝える。当社に伝えられている最も古い棟札の表には奉造立八幡宮御殿一宇とあり、裏面には天正一九年(一五九一)五月三日の紀年銘がある。


十二神社
じゆうにじんじや

[現在地名]南部町赤石 待場

赤石あかいしの南の丘陵地に位置する。祭神は天照大神など一二神で、旧村社。宝暦(一七五一―六四)の頃の御領分社堂に「十二林堂(中略)本地薬師、十二林ハ所ノ名ニ御座候」とあり、別当は修験重光坊で、三戸年行事威徳院の配下に属した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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