日本大百科全書(ニッポニカ) 「十文字美信」の意味・わかりやすい解説
十文字美信
じゅうもんじびしん
(1947― )
写真家。神奈川県横浜市生まれ。1965年(昭和40)神奈川県立神奈川工業高校木材工芸科を卒業。同年、神奈川県工業試験所デザイン研究室に入所。県内の発明家のアイデア作品を商品化する仕事につくが、モダン・ジャズとオートバイに明け暮れ、1968年退職、東京綜合(そうごう)写真専門学校(夜間)に入学。安保闘争で学園封鎖となり、6月に退学。六本木スタジオに勤めた後、1969年篠山紀信の助手になり、1971年に独立。独立の翌年、資質的に広告よりも私的な表現に向いていると自己判断していたにもかかわらず、資生堂と松下電器産業(現パナソニック)からほぼ同時に撮影依頼があり、広告写真およびテレビ・コマーシャルの撮影・演出にかかわるようになる。着想の新鮮さと鋭い時代感覚、それを実現する技術的な工夫が高く評価され、30年以上にわたって広告界をリードし続けている。東京アートディレクターズクラブのADC賞、カンヌ映画祭コマーシャル・フィルム映像部門銅賞ほか、数々の賞を受賞。また発明した立体撮影技法では特許を得ているものもある。
広告分野で活動する一方で、独立当初から個人的なテーマに基づくシリーズを撮影し続けている。デビュー作「untitled」(1974)は夢に現れる顔のない人影にヒントを得て、首から下だけの人物を撮ったシリーズで、1974年MoMA(ニューヨーク近代美術館)における「ニュー・ジャパニーズ・フォトグラフィ」展に出品された。1970年代にはほかにも眼鏡を外して裸眼で撮影した「近眼旅行」、自殺した若者の行動をたどった「グッドバイ」(ともに1973)など、人間の不可視の領域を探る作業を重ねている。
1980年代に入るとテーマが「人間」から「日本人」に絞られていく。ハワイの日系一世のポートレート・シリーズ「蘭(らん)の舟」(1980)を制作し、同名の写真集を出版(1981)、伊奈信男賞を受賞する。また尾形光琳(こうりん)作『扇面貼交手箱(おうぎめんはりまぜてばこ)』の撮影をきっかけに日本の黄金美術に興味をもち、撮影と調査を始める。1990年(平成2)、写真展「黄金浄土」を開催。同年『黄金風天人』を上梓(じょうし)、土門拳(どもんけん)賞を受賞した。また同時期に日本の伝統建築や庭園の撮影を行い、『日本名建築写真選集19 桂離宮』(1993)をまとめている。これらの仕事からは伝統遺産に日本文化の源流をたどろうとする歴史・民族学的な視点がうかがえるが、それをさらに発展させたのは2002年に上梓した『わび』だろう。黄金文化の対極にある日本人のわび観を視覚的に探究したもので、茶道の背後にある自然観を探り、かつそれが現代にも引き継がれている感覚であることを示した。わびの概念をより大きな時空間の中でとらえ直した仕事として高い評価を受ける。
これらのシリーズの合間には、写真のジャンルに収まりきれない活動も行っている。代表的なものは、インドシナ半島北部山岳地帯に住む少数民族ヤオ族の犬祖神話(先祖を犬とする神話)の追跡だろう。神話を記した「評皇券牒」を探し求めて数年にわたって現地に赴(おもむ)き、旅の成果を写真と文章でまとめた(『澄み透った闇』(1987))。また、人と文化のかかわりを探る一方で、写真のもつ科学的側面を掘り下げることに積極的なのも十文字の大きな特徴である。3D写真による写真集(『3D STEREO MUSEUM ポケットに仏像』(1993)ほか)、暗闇のなかで映像を体験するインスタレーション作品「黄金浄土」「Courtly Splendor」(ともに1990)など、さまざまな角度から視覚表現に実験的なアプローチを行っている。
以上のように十文字の仕事は多岐にわたるが、一貫しているのは謎(なぞ)の究明を視覚を通して行おうとする態度である。科学への強い関心をもちながら、科学で解き明かせないものに着目する、日本にあまりみられないタイプの写真家といえよう。
[大竹昭子]
『『蘭の舟』(1981・冬樹社)』▽『『澄み透った闇』(1987・春秋社)』▽『『黄金風天人』(1990・小学館)』▽『『日本名建築写真選集19 桂離宮』『3D STEREO MUSEUM ポケットに仏像』(ともに1993・新潮社)』▽『『十文字美信の仕事と周辺 Artist, Designer and Director SCAN』(2000・六耀社)』▽『『わび』(2002・淡交社)』