尾形光琳(読み)オガタコウリン

デジタル大辞泉 「尾形光琳」の意味・読み・例文・類語

おがた‐こうりん〔をがたクワウリン〕【尾形光琳】

[1658~1716]江戸中期の画家・工芸意匠家。京都の人。名は惟富、通称、市之丞。乾山の兄。初め狩野派を学び、のち光悦宗達の作風の影響を受け、大胆で軽妙な画風により独自の造形美を展開、琳派を確立した。代表作に「燕子花かきつばた図屏風」「紅白梅図屏風」など。蒔絵まきえにもすぐれた作品を残した。

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精選版 日本国語大辞典 「尾形光琳」の意味・読み・例文・類語

おがた‐こうりん【尾形光琳】

  1. 江戸中期の画家、工芸家。乾山(けんざん)の兄。京都の人。絵を狩野派の山本素軒に学ぶ。光悦、宗達に私淑し、大胆、軽妙な画風により、近世装飾画の最高峰といわれる。また、蒔絵(まきえ)や陶器の下絵にも佳作を残した。「燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)」「紅白梅図屏風」は、ともに国宝。万治元~享保元年(一六五八‐一七一六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「尾形光琳」の意味・わかりやすい解説

尾形光琳
おがたこうりん
(1658―1716)

江戸中期の画家。京都の呉服商の老舗(しにせ)、雁金(かりがね)屋の次男に生まれる。父は尾形宗謙(そうけん)、弟に陶芸家として名高い乾山(けんざん)がいる。名は惟富(これとみ)、幼名を市之丞(いちのじょう)といい、34歳ごろから光琳と名のる。方祝(まさとき)、寂明(じゃくみょう)、道崇(どうすう)、澗声(かんせい)、伊亮(これすけ)、青々堂などの号を用いた。

 尾形家は桃山時代、道柏(どうはく)が本阿弥(ほんあみ)光悦の姉を妻に迎え本阿弥家と姻戚(いんせき)関係になり、また淀君(よどぎみ)、徳川秀忠(ひでただ)夫人らの呉服の御用を勤めて雁金屋全盛の基礎を築いた。由緒ある家系と経済的にも恵まれた環境に育った光琳は、幼いころから父と二条家に出入りし、能楽に興じる豊かな生活であった。地道な乾山とは対照的なはで好みの性格は、若い光琳を自由で遊蕩三昧(ゆうとうざんまい)の生活に駆り立てる。30歳で父の莫大(ばくだい)な遺産を継いだ彼は、数年でこれを使い果たし破局を迎えるが、本格的に画業を志したのはこのころとされている。絵は初め狩野(かのう)派の画家山本素軒(そけん)に学び、のちしだいに俵屋宗達(たわらやそうたつ)の絵画に傾倒し、その装飾画様式を新展開させて宗達光琳派(琳派)を大成させた。このような光琳の画家生活を支えた者として銀座役人、中村内蔵助(くらのすけ)の存在は大きい。彼は経済的に光琳を支援したばかりでなく、2人はさまざまな面で親しい間柄にあり、その交友関係は、内蔵助が貨幣改鋳に伴う罪を問われて流罪に処せられるまで続いた。

 光琳は1701年(元禄14)44歳で法橋(ほっきょう)になるが、彼の遺品はこれ以後没するまでの十数年間につくられたものがほとんどである。法橋になってまもないころの作とみられる『燕子花図屏風(かきつばたずびょうぶ)』(国宝・根津美術館)は、金地の上に対象を抽出し、簡潔な図案効果を強調した明快な意匠性を訴え、早い時期の光琳の作画をしのばせる。04年に描いた『中村内蔵助像』(大和(やまと)文華館)は光琳の珍しい肖像画であるが、観察の鋭さと写実描写の優れた筆技を物語る。この年、内蔵助は江戸に転勤するが、光琳も後を追うように下向し、数年間をこの地で過ごす。

 江戸在住期間の生活は、自ら述懐しているように、格式張った大名家に赴いて作画を強いられるなど、けっして快いものではなかったようであるが、この環境の変化は彼の絵画活動にまたとない転機を与える結果となった。これまでの意匠を中心とした造形性への強い志向にかわって、自然をとらえる目には豊かな叙情性が備わり、湿潤な筆が画面を支配する。この時期の作とみられる冬木小袖(こそで)(東京国立博物館)に描きつけた秋草図は、その可憐(かれん)な姿に憂愁が漂い、『つつじ図』(畠山(はたけやま)記念館)も溌墨(はつぼく)風の潤んだ筆が深い情緒を奏でる。そして『波濤図(はとうず)屏風』(メトロポリタン美術館)は、波高い幽暗な海景に当時の光琳自身の感情がよく表されている。1712年(正徳2)に京に帰着した光琳は、正徳(しょうとく)6年6月2日に59歳で没するまでの4年間を晩年の創作活動に傾ける。この時期の代表作『紅白梅図屏風』(国宝、MOA美術館)は、春の陽光を浴びて咲き誇る紅白の梅樹と、図案的な流水文とを同一画面にみごとに統合させたもので、光琳の画業の集大成をみることができる。

 このほかの遺品では、もと九条家の衝立(ついたて)であった『孔雀立葵図(くじゃくたちあおいず)屏風』、宗達の原画によった『風神雷神図屏風』(東京国立博物館)などが知られ、水墨画では『竹梅図屏風』(東京国立博物館)のほか、『維摩図(ゆいまず)』『蹴鞠布袋図(けまりほていず)』など軽妙な筆を生かした作品が多い。また工芸意匠の面にも優れた造形感覚を示し、「冬木小袖」のほか、八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)(東京国立博物館)、乾山焼の絵付(えつけ)の数々、さらに団扇(うちわ)、香包(こうづつみ)などにみごとなデザインを残している。また彼の子供(寿市郎)の養子先小西家に伝わった光琳資料一括のなかには、写生帖(ちょう)をはじめ、デッサン、下絵、工芸意匠の図案など重要な資料が多数含まれ、光琳芸術成立の裏面をうかがうことができて興味深い。

 光琳以後その画風を慕った画家は多く、なかでも深江蘆舟(ろしゅう)、立林何帛(たてばやしかげい)、酒井抱一らは名高い。彼らは江戸を中心に活躍し、琳派の伝統をこの地に定着させた。

[村重 寧]

『田中一松編『光琳』(1959・日本経済新聞社)』『山根有三著『小西家旧蔵光琳関係資料とその研究』(1962・中央公論美術出版)』『山根有三著『原色日本の美術14 宗達と光琳』(1969・小学館)』『河野元昭著『日本美術絵画全集17 尾形光琳』(1976・集英社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「尾形光琳」の意味・わかりやすい解説

尾形光琳 (おがたこうりん)
生没年:1658-1716(万治1-享保1)

江戸中期の画家。名は惟富,通称は市之丞。35歳から用い始めた光琳のほか,方祝,積翠,声,道崇,青々,寂明などの別号がある。京都の高級呉服商雁金屋尾形宗謙の次男に生まれる。弟に尾形乾山がいる。1687年(貞享4)に没した父から,遺産のほぼ半分を譲渡されたが,放蕩生活のうちに使い果たし,39歳ころ画家として立つことを決意する。99年(元禄12)乾山は鳴滝に開窯,乾山焼として売り出すが,光琳はその絵付けを手伝う。また,染織や蒔絵の意匠図案にも従事する。44歳で法橋位を得る。この叙任には,庇護を受けていた公卿二条綱平の推挙があったと推定されている。画は最初父から手ほどきを受けたようだが,その後狩野派の山本素軒(1706没)に就いて本格的に学んだ。素軒画の模写ものこされている。光琳の曾祖父道柏は本阿弥光悦の姉を妻とし,祖父宗柏も光悦周辺の文化人の一人であったため,尾形家には光悦や宗達の作品ものこされていた。これを契機として光琳は宗達画風へ転向,独自の様式形成へと向かうことになった。1704年(宝永1)光琳は初めて江戸へ下り,以後宝永年間(1704-11)に4,5回も京都と江戸を往復した。江戸では深川の富裕な材木商冬木家に寄寓し,津軽越中守邸に出入りし,あるいは酒井雅楽頭(うたのかみ)忠挙から扶持を受けた。多くの雪舟画を模写し,彼らのために制作したが,窮屈な江戸生活に心の安寧を得ることができなかったらしく,それを吐露した書簡(大和文華館)がのこされている。この東下りを,光琳が庇護を受けていた銀座商人中村内蔵助(くらのすけ)などと結託し,宝永期の貨幣改鋳に関し策動するためであったとみる説もある。11年(正徳1)京都新町通り二条下ルに新居を作り,以後そこで創作を続けた。14年銀座闕所(けつしよ)があり,中村内蔵助が家財没収のうえ追放になるという精神的打撃を受けたが,これを克服して画風を完成させた。

 画風の特質は,宗達および宗達派を基礎とし,深い自然観照を盛り込みつつ,理知的な構成によって,斬新な意匠性と豊饒(ほうじよう)なる装飾性を発揮した点にある。《鳥獣写生帖》(文化庁)は,彼が写生に関心をもっていたことを示すものだが,これ自体は狩野探幽の模写であることが近年判明した。二大傑作は,法橋叙任後まもなく《伊勢物語》に取材し,型を使って描いたと推定される《燕子花(かきつばた)図屛風》(根津美術館)と,さまざまな美的要素を完璧に統一した最晩年の《紅白梅図屛風》(MOA美術館)である。そのほか《波濤図屛風》(メトロポリタン美術館),《孔雀立葵(くじやくたちあおい)図屛風》,《草花図巻》,《躑躅(つつじ)図》(畠山記念館),《中村内蔵助像》(1704,大和文華館)などがある。《竹梅図屛風》(文化庁),《維摩図》など水墨画にも優品が多い。光悦の伝統を引き継いで工芸作品にも天分を発揮し,《八ッ橋蒔絵硯箱》《冬木小袖》(ともに東京国立博物館)などのほか,彼が絵付けを行った乾山焼が多数のこされている。上記写生帖,遺印,画稿などは,〈小西家文書〉(文化庁,大阪市立美術館分蔵)としてのこり,光琳研究の貴重な資料となっている。
琳派
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朝日日本歴史人物事典 「尾形光琳」の解説

尾形光琳

没年:享保1.6.2(1716.7.20)
生年:万治1(1658)
江戸前期の画家。名は惟富,惟亮,伊亮,50歳代に入ってから方祝を用いる。号は初め積翠,次に澗声,道崇,寂明,青々など。通称市之丞,35歳ごろより光琳と称した。京都の人。裕福な呉服商,雁金屋の尾形宗謙の次男。弟は陶芸家の尾形乾山。雁金屋を一代で築いた曾祖父の道柏の妻は,本阿弥光悦の姉。光琳は初め父宗謙から絵の手ほどきを受け,のち山本素軒について狩野派の画法を学んだが,やがて尾形家に伝わる宗達や光悦の作品に強く惹かれるようになった。宗謙の死後,数年で莫大な遺産を蕩尽し,30歳代の終わりごろから画家として世に立つようになった。狩野派と宗達風が混じる「蹴鞠布袋図」(出光美術館蔵)などは,このころの清新な画風を示す優作である。また同じころ京都の鳴滝に窯を築き,乾山焼を売り出した乾山に協力,絵付けを行った。その傑作に「黄山谷観鴎図角皿」(東京国立博物館蔵)などがある。 元禄14(1701)年44歳のとき,二条綱平の推挙により法橋に叙せられる。光琳の2大傑作のひとつ「燕子花図屏風」(国宝,根津美術館蔵)は,このころ描かれたもので,『伊勢物語』を発想の基盤に,型紙を用いながら,艶麗な燕子花をみごとに造形化している。宝永1(1704)年に描かれた「中村内蔵助像」(重文,大和文華館蔵)は,光琳の彩管になる唯一の肖像画遺品として有名である。銀座商人の内蔵助は光琳のパトロンであり,また親友であった。内蔵助は貨幣改鋳で巨利を得,豪奢な生活を送っていた。あるとき,内蔵助の妻が東山の茶会に出ることになったが,その茶会は富豪の妻たちの衣裳競べの場でもあった。そこで内蔵助は光琳に相談し,その指示通りにした。当日,内蔵助の妻は白と黒というきわめてシンプルな衣裳で現れ,並み居るきらびやかな装いの他の妻たちをうち負かしたという。この逸話は,光琳の鋭い美意識を物語っている。同じ宝永1年に,光琳は初めて江戸に出た。宝永2年の銘が軸芯にある「草花図巻」(個人蔵)は,江戸で世話になった大名の津軽家に伝来したもので,宗達学習の進化の跡を示して秀逸である。数度の江戸行きののち,正徳1(1711)年54歳のとき,京都に自ら設計したアトリエを建て,精力的に制作に打ちこむとともに,みずからの画風の大成を推し進めた。「風神雷神図屏風」(重文,東京国立博物館蔵)は宗達を模写したものであるが,このような宗達学習ののち,光琳は宗達との資質の違いに目覚め,やがて「紅白梅図屏風」(国宝,MOA美術館蔵)に到達した。光琳芸術の美的特質は,宗達芸術の明るくおおらかな装飾性を受け継ぎながらも,そこに心理的な陰影を加えて,等身大ともいうべきヒューマニスティックな装飾性を打ち立てた点に求められる。しかし,「鳥獣写生図巻」(文化庁蔵)からもうかがわれるように,その基盤には,現実の世界に対するしっかりとした認識があったことを見逃すべきではない。 光琳は工芸の分野でもすぐれた才能を発揮,「八橋蒔絵硯箱」(国宝,東京国立博物館蔵),「白地秋草模様小袖」(重文,東京国立博物館蔵)などの傑作を遺した。光琳の蒔絵については有名な逸話がある。光琳が仲間と共に嵐山へ花見に出かけたとき,彼らは贅を凝らした行厨から山海の珍味を取り出したが,光琳はひとり竹の皮の包みから握り飯を出して食っていた。人々は嘲笑したが,よくみると,竹の皮の裏には金銀を使った精巧驚くべき蒔絵が施されていた。しかも,光琳は食べ終わると,それを惜しげもなく大堰川に捨ててしまったという。妙顕寺興善院に葬られた。<参考文献>河野元昭「尾形光琳」(『日本美術絵画全集』17巻),山根有三『琳派絵画全集 光琳派Ⅰ』,西本周子「光琳・乾山」(『新編名宝日本の美術』24巻)

(河野元昭)

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百科事典マイペディア 「尾形光琳」の意味・わかりやすい解説

尾形光琳【おがたこうりん】

江戸中期の画家。京都の呉服商雁金(かりがね)屋尾形宗謙の次男。父の多趣味な生活に感化され,能や絵の素養を積んで成長。30歳のとき多額の遺産を得たが,享楽的生活と事業の失敗により破産,40歳ころから本格的な画家生活にはいる。その後も銀座役人中村内蔵助や豪商たちと親交を結び,江戸に出てからも材木商冬木家や大名の津軽家,酒井家の庇護(ひご)を受けるなど生来の社交性を発揮したが,生活は常に不安定であった。絵は初め狩野・土佐折衷風(狩野派土佐派)から,のち宗達派に傾倒,その装飾画様式に知的なきびしさを加えた。代表作《燕子花(かきつばた)図屏風》《紅白梅図屏風》など。弟尾形乾山の陶磁器の絵付けや,光悦風の蒔絵(まきえ)などにもすぐれた意匠を残している。
→関連項目伊藤仁斎元禄文化酒井抱一溜込深江蘆舟妙顕寺八橋琳派渡辺始興

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「尾形光琳」の意味・わかりやすい解説

尾形光琳
おがたこうりん

[生]万治1(1658).京都
[没]正徳6(1716).6.2. 京都
江戸時代中期の画家,工芸家。京都の富裕な呉服商の雁金屋尾形宗謙の次男。尾形乾山 (けんざん) は弟。名は惟富 (これとみ) ,のちに方祝 (まさとき) と改める。通称市之丞,34,35歳頃より光琳と称する。号は澗声,道崇,寂明など。初め狩野派の画技を学んだが,やがて俵屋宗達および宗達派の作品の真髄に触れ,多大な影響を受けながら独自の画風を大成。その絵は宗達画の豊かな装飾性を,卓越した造形感覚と鋭い自然観照眼とをもって新しく展開させたものといえよう。また彼の画面には家業の衣装模様の影響も見逃せない。二条家などの公家への出入りや,上層町衆との交遊など派手な生活をおくる反面,名門雁金屋が斜陽化するに及んで,経済的には必ずしも安定してはいなかった。このとき銀座方役人中村内蔵助 (くらのすけ) が多大の援助を与えた。また,江戸に下ったときには,酒井家,津軽家などの大名屋敷にも出入りしている。絵画のほか,光悦蒔絵の影響を受けて蒔絵の意匠を考案し,乾山の陶器の絵付けなどもしている。主要作品『燕子花 (かきつばた) 図屏風』 (国宝,根津美術館) ,『紅白梅図屏風』 (1701頃,国宝,MOA美術館) ,『中村内蔵助像』 (04,大和文華館) ,『草花図巻』 (05) ,『八橋蒔絵螺鈿硯箱』 (国宝,東京国立博物館) 。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「尾形光琳」の解説

尾形光琳
おがたこうりん

1658~1716.6.2

俵屋宗達(そうたつ)の画風をうけつぎ新たな琳派(りんぱ)様式を展開した江戸前期の画家。通称市之丞,号は積翠・㵎声(かんせい)・道崇・寂明・青々(せいせい)など。京都の呉服商雁金(かりがね)屋の次男に生まれ,1692年(元禄5)頃から光琳と称する。1701年法橋となる。二条綱平や銀座年寄中村内蔵助の庇護をうける一方,宝永年間(1704~11)には江戸に下って酒井家など大名家の扶持をうけたこともあった。晩年は京都で大作を次々と制作し,弟乾山(けんざん)の焼物の絵付にも意欲的にとりくんだ。画風は大胆な空間構成や鮮やかな色彩による意匠性を特徴とし,染織や蒔絵などの工芸デザインに及ぼした影響も大きい。代表作「燕子花(かきつばた)図屏風」「紅白梅図屏風」「八橋蒔絵螺鈿硯箱」は国宝。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「尾形光琳」の解説

尾形光琳 おがた-こうりん

1658-1716 江戸時代前期-中期の画家,工芸家。
万治(まんじ)元年生まれ。尾形宗謙の次男。尾形乾山の兄。狩野派山本素軒にまなぶ。本阿弥光悦(ほんあみ-こうえつ),俵屋宗達(たわらや-そうたつ),野々村仁清の遺風をうけて,装飾性にとむ光琳模様ともいえる独自の大和絵画風を確立。のち琳派とよばれる。蒔絵(まきえ),茶器,小袖の下絵などでも弟の乾山とともに活躍した。作品はほとんどが40歳以後にえがかれたと推定されている。正徳(しょうとく)6年6月2日死去。59歳。京都出身。名は惟富,伊亮,方祝。別号に澗声,寂明,長江軒,青々斎。代表作の屏風に「燕子花(かきつばた)図」「八橋図」「紅白梅図」,蒔絵に「八橋蒔絵螺鈿(らでん)硯箱」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「尾形光琳」の解説

尾形光琳
おがたこうりん

1658〜1716
江戸中期の画家・工芸家
京都の呉服商雁金屋 (かりがねや) 尾形宗謙の2男。父の遺産を消費したが,その作風には豪商の雄大な気風がうかがえる。初め狩野派を学び,のち俵屋宗達 (そうたつ) に私淑して豪快な装飾画風を大成し,琳派といわれた。工芸では本阿弥光悦に傾倒し,名作を残した。代表作に『紅白梅図屛風』『燕子花 (かきつばた) 図屛風』『八ツ橋蒔絵硯箱』など。

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世界大百科事典(旧版)内の尾形光琳の言及

【尾形乾山】より

…習静堂,紫翠,逃禅,乾山,尚古斎,陶隠などと号した。呉服商雁金屋宗謙の三男で,次兄に尾形光琳がいる。若年から学問を好み,光悦の孫空中斎光甫や楽一入に陶法の手ほどきを受け,1689年(元禄2)洛西双ヶ岡に習静堂を建てて隠棲した。…

【本阿弥光悦】より

…代表作は《舟橋蒔絵硯箱》(国宝,東京国立博物館)。なお,この漆芸の系統をひく代表的な作家として,元禄期(1688‐1704)の尾形光琳(1658‐1716)があげられ,光悦作品を模造した《住の江蒔絵硯箱》(重要文化財,静嘉堂文庫)があって,その傾向が知られる。絵画は宗達や宗達派の作品との区別がつかないので,確かな光悦の作品を知ることができない。…

【琳派】より

…桃山時代後期に興り,近代まで続いた造形芸術上の流派。宗達光琳派とも呼ばれ,本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し,尾形光琳・乾山兄弟によって発展,酒井抱一,鈴木其一(きいつ)が江戸の地に定着させた。その特質として(1)基盤としてのやまと絵の伝統,(2)豊饒な装飾性,(3)絵画を中心として書や諸工芸をも包括する総合性,(4)家系による継承ではなく私淑による断続的継承,などの点が挙げられる。…

※「尾形光琳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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