金山村(読み)かねやまむら

日本歴史地名大系 「金山村」の解説

金山村
かねやまむら

[現在地名]表郷村金山

千軒せんげん岳の山間を源流として北流する黄金こがね川がやしろ川に合流する地点に位置し、南西は八溝やみぞ山地を隔てて下野国那須郡追分おいわけ(現栃木県那須町)、西は番沢ばんざわ村、北は社仁井田やしろにいだ村、東は梁森やなもり村。白河関から棚倉たなぐら(現棚倉町)へのせき街道が通り、北へ分岐して釜子かまのこ(現東村)、黄金川沿いに犬神いぬがみを通って戸中とちゆう(現棚倉町)へ至る道もあり、交通の要衝であった。久安六年(一一五〇)八月二一日の右衛門大尉源某宛行状案(上遠野文書)に「預行 処領事 在陸奥国白河領内、社・金山、右件両村、以平正光為預所職、為令執行領務 所補任也」とある。社・金山両村の預所職に補任された正光は、保延四年(一一三八)一〇月二六日の陸奥国司庁宣案(同文書)で左大臣源有仁家領岩瀬庄の立券を命ぜられた岩瀬郡司小山政光と思われる。建武二年(一三三五)正月一八日の北畠顕家下文(結城神社文書)に「可令早結城上野入道々忠領知当庄金山郷内新田村事」とみえ、結城宗広は白河庄内の金山郷内新田にいだ村を安堵された。同年一〇月五日の後醍醐天皇綸旨(秋田藩家蔵白川文書)によれば、「陸奥国依上保・金原保、白河庄内金山郷等」が結城親朝に与えられている。

金山村
かなやまむら

[現在地名]金山町金山

馬瀬まぜ川と飛騨川の合流点付近西岸にある。美濃国武儀むぎ郡に属し、北の馬瀬川対岸は飛騨国益田郡わたり村。飛騨街道がほぼ南北に通る。「延喜式」民部省に「飛騨国金山河渡子二人、免徭役」とあるのは当地のことか。戦国末期と推定される年未詳一二月一一日付斎藤范可充行状(斎藤文書)に金山とあり、桑原右近衛門尉に与えられている。同所の年貢銭は一五〇貫文であった(「かち田年貢銭目録」同文書)慶長郷帳の村高八三五石余で、おそらく篠洞ささほら村分を含む。幕府領。元和元年(一六一五)尾張藩領となる。同二年の村高領知改帳では高六〇六石余。正保郷帳では田三〇二石余・畑三〇四石余、小物成米(山年貢)三石余、柴山がある。明暦覚書では概高七〇九石余、人数七三六、馬七九。

金山村
かねやまむら

[現在地名]南陽市金山

宮内みやうち村の北、吉野よしの川中流域にあり、小滝こたき街道が縦貫する。村名について砥石沢といしざわ金山にちなむ伝承もある。永正六年(一五〇九)五月一一日、桑折こおり(現福島県伊達郡桑折町)の領主湯村信濃が北条ほうじよう金山郷内のほかに置賜おきたま郡の各所を伊達尚宗から与えられている(伊達正統世次考)。天文七年(一五三八)の段銭古帳では「や代之庄」のうちに「十七〆仁百五文 かね山」とある。同一八年一二月一九日伊達晴宗は宮内館主大津土佐守に「ほうてうかね山のかうのうち平八さいけ一けん一宇、すゝめさいけ一けん一宇」を一五貫五〇〇文で売渡し(「伊達晴宗売券」湯目隆治氏旧蔵湯目文書)、同二二年一月一七日、前述の二在家と「金山之郷内湯村藤三郎分」を湯目七郎左衛門尉に安堵し(「伊達晴宗安堵状」同文書)、さらに金山郷のうちの湯村図書助の知行を残らず与えている(「伊達晴宗充行状」同文書)

金山村
かなやまむら

[現在地名]西伯町東上とうじよう

常清つねきよ村の南、東長田ひがしながた川上流の山間部に位置する。鎌倉かまくら山に源を発する牛子うしこ川・水谷みずたに川・奥山おくやま川や峠口とうげぐち川の合流点にあたり、法勝寺ほつしようじ往来の枝道金山越に沿う。この道は作州街道ともよばれ、金山峠越によって日野郡二部にぶ宿(現溝口町)に通じ、古くから伯耆西部と日野郡や作州方面を結ぶ最短路として利用されてきた。東は日野郡藤屋ふじや(現同上)。地名の由来は、地内に鉄山があったことによるという(伯耆志)。寛永一〇年(一六三三)の検地帳写(西伯町役場蔵)によれば高一五六石余、反別は一三町余、名請人三〇名のうち、四町以上(一名)を含め一町以上の耕地を保持する者は三名で、以下一町未満―七反の者七、五―三反六、三反未満―一反五、一反未満の者九となっている。

金山村
かなやまむら

[現在地名]沼南町金山

いずみ村の南西、手賀てが沼に流入する金山落の北岸台地上に位置する。金山落の大谷津を挟んで南東対岸は富塚とみつか(現白井町)、南西はふじ村。地内の谷津に向かう傾斜地では古代の製鉄遺跡が五ヵ所発見されている。製錬所跡で、地元ではカナクソとよんでいる。中世には泉村のうち。正和四年(一三一五)八月七日、相馬胤顕の後家尼妙悟は「ミなミさうまのうち、いつミのむら」を子息胤盛に譲与したが、その際「いつミ□うち、かなやまに二郎太郎かさいけ一けん、のた一ちやう」は次男孫六胤兼に割譲されている(「尼妙悟譲状」相馬岡田文書)

金山村
かなやまむら

[現在地名]敦賀市金山・さわさくらおか町・若葉わかば

野坂のざか村の北、若狭街道沿いにあり、くち川と大瀬おおせ川の二河川が流れる。応永一一年(一四〇四)九月二二日付津保守心安堵状(西福寺文書)に「野坂庄金山郷」、同二〇年三月一〇日付西福寺寺領下地目録(同文書)に「金山本御所」とみえる。「滋賀県物産誌」は「文安五年、井ノ口谷洪水ノ為メニ崩レ村落過半堙没シテ原野ニ帰セリ、今所謂鞠山・折戸・片野ノ原是ナリ、当時此難ニ逢フ者居ヲ村ノ西北ニ転シ、自ラ西山谷を開墾シテ田畝トナス、於是乎金山村ハ東西ノ二ツニ分レタリ、ト云フ」と記す。

金山村
かなやまむら

[現在地名]荒尾市金山

小岱しようだい山系が南に延びた(二〇八メートル)の南西裾に立地する。東と南は西照寺さいしようじ(現玉名郡岱明町)、北はかば村、西は野原のばら村と向野むかいの(現玉名郡長洲町)に接し、三池みいけ往還が村央を南北に通る。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田三一町六反六畝余・畠居屋敷三町四反七畝余、分米三八〇石六斗余。近世は荒尾手永に属する。宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳によれば、惣畝数四九町一反四畝余、下ケ名は二六、うち前田・源浦・瀬戸は明治の「郡村誌」にみえず、藤木と焼石はまだ上中下に分れていない。

金山村
かなやまむら

[現在地名]美浜町金山

久々子くぐし村の南に立地。南に矢筈やはず岳を負い、村内を丹後街道が通る。集落の南東に小名の別所べつしよ久保くぼがある。中世は耳西みみにし郷に属した。応安四年(一三七一)四月二九日付の江村家文書に「長谷寺五所大明神為楽頭田分、金山郷御年貢内一石、可被下行之状如件」とあり、当地に気山大夫の楽頭田があったことが知られる。大永二年(一五二二)の上瀬宮毎年祭礼御神事次第(宇波西神社文書)に各村から神事に献上される膳の内容が記され、その中に村名がみえる。

金山村
かねやまむら

[現在地名]鶴岡市西目にしめ

釈迦堂しやかどう山の東麓にあり、北は山口やまぐち村。「往古北国海道、由良ヨリ内郷ニ出ル咽喉ノ地」で、安倍氏の居館金山館が構えられていたという(筆濃余理)。安倍氏は寛永年間(一六二四―四四)に庄内藩に一五〇石で召抱えられている。寛永元年庄内高辻帳に村名がみえ高九二石余。正保郷帳では田高八八石余・畑高四石余、柴山がある。弍郡詳記では高九八石余、免六ツ二分六厘、家数一七、うち一軒は田中たなか分。

金山村
かねやまむら

[現在地名]五所川原市金山

大釈迦だいしやか丘陵西端おお溜池の西に位置し、東は支村野崎のざき村、西は支村田中たなか村、北は川代田かわしろた村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡に金山村二六〇・三四石とあり、うち田方二二九・六四石とある。貞享元年(一六八四)の郷村帳に一六〇・三石とある。同四年の検地帳は田方八八町二反八畝一五歩・畑方二四町七畝一九歩、田畑屋敷合せて一一二町三反六畝四歩、村高八七三・二〇五石、漆木三本と記す。「平山日記」によれば、元禄三年(一六九〇)には飯詰組に属し、村位は中で、家数は天神てんじん村・川代田村を合せて四二、うち庄屋二・百姓二四・水呑一六であった。

金山村
きんざんむら

[現在地名]大野市金山

旅塚たびづか川の最上流に位置する。享保元年(一七一六)一二月一一日の金山町他六ケ村入会山出入裁許請書写(坪内家文書)によると、慶長一六年(一六一一)頃金山が開かれ繁栄したが、その後衰退し承応三年(一六五四)堂島どうじま村検地の際、金山町に四〇石余の新開を命じられたという。元禄四年(一六九一)八月二九日の「三代官より附渡郷村高帳」写(藤田文書)によれば、堂島村は三一〇・九五七石とあって、金山の四〇石余は堂島村の村高に組込まれたと確認される。

金山村
かねやまむら

[現在地名]益田市金山町

土田つちだ川の水源地帯で、北と東は那賀郡岡見おかみ(現三隅町)、南は宇治うじ村、西は土田村。地名は昔金を掘ったことに由来するという(石見八重葎)。永和二年(一三七六)四月二二日の益田本郷御年貢并田数目録帳(益田家文書)に弥次郎入道名・清太郎名の所在地として「金山」がみえる。江戸時代の支配の変遷は益田村と同じ。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では高一五六石余、年貢は田方六九石余・畑方一〇石余。

金山村
かねやまむら

[現在地名]本荘市小友おとも 金山

子吉こよし川の支流小友川(南の股みなみのまた川)と北の股きたのまた川の分岐点にあたる。東南は大沢おおさわ村、東北は苗代沢なしろさわ山で南の股村、西は小友川で館前たてまえ村、北は小友川で北の股村、堰根口せきねぐち山で土屋つちや村と接する。

藩政期は資料がなくまったく不明。明治五年(一八七二)には一七一石(旧高旧領取調帳)、明治初年の戸数二一戸、人口一〇一人、馬二五頭で、馬五頭、薪一〇尋、炭七〇〇貫を本荘町へ出荷するが、いずれも其質悪とある。

金山村
かなやまむら

[現在地名]熊野市金山町

久生屋くしや村の北西内陸部にあり、小盆地を形作っている。慶長検地に金野山かねのやまとみえ(「慶長検地高目録」和歌山県間藤氏蔵)、「紀伊続風土記」は「古は貝山と書きしと云ふ、かひの やまの義なるへし」と記す。新宮領で有馬組に属する。宝永五年(一七〇八)新田検地が行われた(「金山村新田畑屋敷改帳」徳川林政史蔵)。近世初期の家数四一(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)、後期には五一(紀州新宮領分見聞記)

金山村
かねやまむら

[現在地名]上山市金山

金山峠の麓にあり、近世後期に楢下ならげ村より分村した枝郷であるが、郷帳類には村名がみえない。宝暦一一年(一七六一)には村高はなく、家数二〇・人数九四、天明八年(一七八八)には一三軒に減じたが、天保九年(一八三八)は一八軒・七七人となる(上山見聞随筆)。金山鉱山は川口かわぐち村の百姓が山稼中にまよか沢の谷で金塊を発見したと伝え(清光院文書)、寛永(一六二四―四四)初期能見松平氏により金山が開発され、以来金山が地名となる。

金山村
かなやまむら

[現在地名]朝日町金山

黒部川右岸の河岸段丘の末端に位置し、北から西は窪田くぼた村、東は大家庄おいのしよう村、南は下山新にざやましん村・高橋たかはし村。正保郷帳では高四四六石余、田方二八町八反余・畑方九反、新田高三八石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五六八石、免四ツ五歩、小物成は野役三八匁・鱒役八匁・鮎川役五匁(三箇国高物成帳)

金山村
かねやまむら

[現在地名]飯田川町金山

羽州街道沿いの和田妹川わだいもがわ村から東に半里ほどの山間にある。西の米桶こめおけ沢の溜池、俗称おお堤はいも川の水源となっている。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に金山村三九石、新田とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」には家数一〇軒とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報