イタリアの政治家、共産主義運動の国際的指導者。ジェノバの下級官吏の家庭に生まれ、給費生としてトリノ大学に進学。在学中にグラムシと親交を結ぶ。1919年グラムシ、タスカとともに『新秩序(オルデイネ・ヌオーボ)』誌を発行してトリノの工場評議会運動を指導。1921年に創設されたイタリア共産党に参加し、翌1922年の第2回党大会で中央委員に選出される。党内の指導権をめぐるグラムシの反ボルディーガ闘争を支持し、1926年初頭リヨンで開かれた第3回党大会における「新秩序」派の勝利に貢献した。大会直後コミンテルンへの党代表としてモスクワに赴任、以後19年に及ぶ海外生活に入る。共産党がムッソリーニによって非合法化され、グラムシが逮捕されたあと(1926.11)パリに指導部を設置して国外からの指導体制を掌握する。スターリンとブハーリンの間に激動するコミンテルン書記局にあって冷静な対応によって生き残り、1935年のコミンテルン第7回大会ではディミトロフとともに国際共産主義運動の転換(「階級対階級」戦術から人民戦線戦術へ)に尽力した。
1936年から1939年にかけてコミンテルン代表としてスペインの闘争を現地で指導。第二次世界大戦中はモスクワからイタリアの反ファシズム運動を指導し、ファシスト政権崩壊後の1944年春祖国に帰り、対ドイツ解放闘争に総力を結集する党の新しい政策を打ち出す(「サレルノの転換」)。以後この観点から国民解放委員会を基盤とする諸政府(バドリオから第一次デ・ガスペリまで)につねに閣僚として参加し、合法的大政党としての共産党の地位を確立した。1948年夏、右翼によるトリアッティ暗殺未遂事件は労働者の自然発生的ゼネストを引き起こした。ソ連の第20回党大会に始まるスターリン批判の動向を背景としてイタリア共産党第8回大会で「社会主義へのイタリアの道」、いわゆる構造改革路線を提出し、国際的に注目を浴びた。その核心は「多中心主義」の語に要約される。これによってロシア革命と異なる多様な民主主義的社会主義の道が開かれることになった。1964年8月21日、中ソ論争の激化のさなかに国際共産主義運動の分裂を憂慮しつつヤルタで客死した。
[重岡保郎]
『山崎功著『パルミーロ・トリアッティ』(1978・合同出版)』▽『選集刊行委員会編『新版トリアッティ選集』全3巻(1980・合同出版)』
ロシア連邦西部、サマラ州の工業都市。ボルガ川中流部のサマラ貯水池沿岸にある。人口72万0300(1999)。市の発展は第二次世界大戦以降で、1950年ボルガ川にダム、発電所が建設され、合成ゴム、窒素肥料を生産する工場がつくられてからである。また、1970年イタリアのフィアットの技術援助により建設されたボルガ自動車工場(乗用車ジグーリを生産)建設により、ロシアの重要な自動車生産都市になった。そのほか、船舶修理、建設工業用機械、電気機械工業などの工場がある。市の歴史は1736年に要塞(ようさい)が築かれたことに始まり、1780年市となった。工科大学、郷土博物館、人形劇場などの教育・文化施設がある。1964年までスタブロポリСтаврополь/Stavropol'と称したが、イタリア共産党指導者トリアッティを記念して改名した。
[中村泰三]
イタリア共産党指導者。トリノ大学在学中に社会党に入党,第1次大戦後グラムシらとともに《新秩序Ordine Nuovo》誌を発行して,トリノの労働運動を指導する。1921年イタリア共産党の創設に参加,のちコミンテルン執行委員となる。ファシズム政権に共産党が非合法化され,グラムシが逮捕されたあと,党指導部のトリアッティらはパリに移り,国外から反ファシズム闘争を進めた。コミンテルン第6回大会(1928)でイタリア・ファシズムの性格に関する重要な報告を行ったが,のち社会ファシズム論(ファシズム)を受け入れて党指導部の分裂を招く。しかし,第7回大会(1935)では社会ファシズム論から人民戦線路線への転換を推進し,37年から39年にかけてスペイン内乱を現地で指導した。第2次大戦中はモスクワからのラジオ放送でイタリア国民に抵抗を呼びかけ,連合軍と反ファシズム諸勢力によって南イタリアが解放されたあとの44年3月,ほぼ18年ぶりに帰国した。
この時期,反ファシズム諸政党で構成する国民解放委員会と国王・バドリオ政権との間の対立が深まっていたが,トリアッティはバドリオへの協力を表明して,同年4月諸政党の参加したバドリオ政府の成立をもたらし,みずからも入閣した。サレルノ転回とよばれるこの事件は,以後のレジスタンス闘争の展開に一定の枠組みを与えることになった。トリアッティはこののち46年の第1次デ・ガスペリ内閣のときまで連続して閣僚のポストにとどまる。この間,党の大衆化を試みて,共産党をキリスト教民主党に次ぐ第二党の位置に定着させた。48年,右翼青年の襲撃を受けたが一命をとりとめる。スターリン死後冷戦の緊張状態を緩和した,〈雪どけ〉を背景とした党の第8回大会(1956)で,イタリア社会の構造的諸改革を提案し,従来の革命的変革に代わる構造改革論を打ち出した。この路線は国際共産主義運動の多様化に道を開き,多中心主義の表現を生み出した。
執筆者:北原 敦
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1893~1964
イタリアの政治家。1914年社会党に入党。トリノにおける工場占拠運動を指導したのち,21年にグラムシらとともに共産党を創立。27年にグラムシが逮捕されると亡命し,国外で反ファシズムの運動を行った。第二次世界大戦中はモスクワでコミンテルン書記局に身を置く。44年に帰国し,党を再建して書記長となる。44~46年には副首相,法相を歴任した。スターリン批判後はイタリア独自の革命形態としての構造改革論を主張し注目を浴びた。
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…この立場は,国家の形成と国民の組織化という点でリソルジメントは未完にとどまったとし,その未完のリソルジメントを継承し完成させる運動としてファシズムに積極的な支持を与えた。 第4の立場は,グラムシやトリアッティら共産党指導者の解釈で,グラムシらは,これまでイタリアの支配諸階層は地域ごと産業ごとに分裂していて統一的な政治組織をもたなかったが,ファシズムはこれら支配諸階層を単一の政治機関のもとに統一する役割を果たしたと分析し,その階級的性格を強調した。さらにトリアッティは30年代に入って,ファシズムが大衆の組織化を通じて支配の安定を図っている状況を指摘し,大衆の反動体制という形態をとった階級独裁としてファシズムを性格づけた。…
※「トリアッティ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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