反ファシズム(読み)はんファシズム(英語表記)Anti-Fascism

改訂新版 世界大百科事典 「反ファシズム」の意味・わかりやすい解説

反ファシズム (はんファシズム)
Anti-Fascism

反ファシズムとは一般的にいえば,ファシズムに対して批判ないし反対の立場をとることである。しかし,ファシズムに反対するといっても,そこにはさまざまな動機がみられ,反対の意思の表明の仕方,行動のとり方は多様である。精神的態度としての反ファシズムもあれば政治的立場としての反ファシズムもあり,反対行動においても非組織的なものから組織的な運動まで,いろいろな形態が生じうる。つまり,反ファシズムの多様なあり方ということが問題となるのである。このように反ファシズムは個人ごと,集団ごと,さらには国ごとに多様なあり方をとるといえるが,この多様性は一つにはそれぞれの地域におけるファシズムの性格や形態の違いそのものと関係している面がある。また一つには,諸個人・諸集団がファシズムをどのようなものとして認識するのか,そのファシズム観の違いによる面もある。

歴史的に反ファシズムが問題となるのはまずイタリアにおいてである。ファシズムが最初に出現し,また早くファシズム政権が成立したイタリアでは,他国に先がけてすでに1920年代に反ファシズムのさまざまな運動が繰り広げられる。その後,30年代前半にドイツ・ナチズムの台頭と権力獲得に際して,反ファシズムは統一戦線あるいは反戦平和の思想と深い結びつきをもつようになり,またイタリア,ドイツをこえて国際的な広がりをもつに至る。30年代半ばになると,ファシズムに対抗,阻止するものとして人民戦線が提起され,人民戦線が反ファシズムの主要なあり方とみなされる時期が生じる。第2次大戦の勃発後,ドイツとイタリアに占領された国々で占領軍に対するレジスタンスが起こり,ここでは反ファシズムとレジスタンスの関係が重要なものとなった。第2次大戦での連合国軍の勝利およびレジスタンスによる解放を通じて,ドイツ,イタリアなどのファシズム政権は崩壊し,また諸国におけるファシズム勢力も弱体化して,第2次大戦の終了とともに運動としての反ファシズムは一つの区切りを迎える。第2次大戦後は,スペインのフランコ政権,ポルトガルのサラザール政権,アルゼンチンのペロン政権などへの反対闘争を反ファシズムとして性格づけるような場合を別とすれば,反ファシズムのあり方はファシズム復活の兆候をもつ運動や現象に敏感に反応し批判し,ファシズム支配の危険を事前に阻止するということに主要な特徴がみられるといえる。ここでは第2次大戦までの反ファシズム運動を概観する。

イタリアでファシズムの大衆運動が始まるのが1920年末のことで,この時期からファシスト突撃団の暴力的・破壊的行動が強まるが,これに対して人民突撃隊Arditi del Popoloという民衆組織が各地で形成される。人民突撃隊は民衆の間で自立的に生じた団体で,組織的な反ファシズム運動の最初の例となった。その後,ファシズムが地方都市の征服を個別に進めていくのに対して,労働会議所などを中心に地域ごとの反ファシズムの動きがとられ,また22年2月には労働諸団体から成る反ファシズムのための全国的な機関として労働同盟Alleanza del Lavoroが結成される。労働同盟は同年夏にゼネストでファシズムに対抗するが,逆にファシストの攻撃をうけて失敗し無力化した。22年10月ムッソリーニ内閣が成立した後,24年に発生したマッテオッティ事件が反ファシズムの歴史のなかで重要なものとなった。統一社会党の国会議員マッテオッティがファシストに暗殺されたことに抗議して,社会党,人民党,自由主義諸派,共産党の反ファッショ諸政党は分離議会(アベンティーノ議会と称した)を結成,この議会の正統性を主張してムッソリーニ内閣に退陣を迫った。議会外でも反ファシズムの広範な民衆運動が起こり,政府は窮地に立った。しかし,アベンティーノ分離派(共産党はのちに離脱)は民衆運動に依拠するよりも,国王の調停に期待をかけて時を過ごし,結局ファシストの反撃を招いた。これをきっかけにムッソリーニ内閣は強硬姿勢に転じ,反ファシズム諸運動を弾圧してファシズム体制の形成へと向かう。1925-26年の間に出版の自由,結社の自由が制限され,ファシスト党以外の政党は解散させられ,国家防衛特別裁判所の設置と政治犯に対する死刑の導入がなされた。このため反ファシズムの立場は完全に非合法なものとなり,それを行動で表さずとも,単に意思の表明だけで投獄,流刑あるいは死刑の処置をうけることになった。こののち,反ファシズム運動は国内で地下活動として進めるか,あるいは国外に出て組織するかの選択を余儀なくされ,多くの政治家,知識人,労働者,市民が国外亡命の途についた。国内で反ファシズムの思想を表明しえた例外的な存在はクローチェで,彼は1925年にジェンティーレらファシスト知識人の宣言に反発した文書を起草して以来,反ファシズムの立場から自由の理論を唱え続けた。国外では27年にパリで社会党,共和党系の亡命者グループによって反ファシスト連合Concentrazione antifascistaが結成され,29年に同じくパリでC.ロッセリを中心に〈正義と自由Giustizia e Libertá〉が結成された。〈正義と自由〉は自由主義的社会主義の思想を掲げ行動的な団体で,国内での地下活動も追求した。共産党もパリに指導部を移していたが,国内での反ファシズム活動を重視して,他の党派とは別個に独自の地下活動に取り組んだ。ファシズム政権下のイタリアにおいては,こうした組織的な運動と関係をもつ形からまったく個人的なひそかな形に至るまで,さまざまな形態での反ファシズムが居住地,職場,亡命先の各地で40年代前半まで続いていく。

ドイツ・ナチズムの権力獲得(1933)はファシズムの脅威を国際的に拡大させ,それとともに反ファシズムの課題も国際的な広がりを帯びるようになった。この動きに合わせて新たに二つの問題が反ファシズムとの関連で重視された。一つは統一戦線の問題である。諸国において反ファシズムの中心勢力である共産党と社会党(あるいは社会民主党)は,従来統一戦線をめぐって対立を重ね,ファシズムに対する共同行動をとることはなかった。しかし,ナチス政権成立後の新たな国際情勢のもとで,社共両党は反ファシズムの共同行動の努力を進め,34年にフランス,イタリア,ドイツなど各国に統一行動協定が結ばれた。これによって両党の影響下にある各労働組合,民衆組織,文化団体の間での統一行動が可能となり,これはさらに社共両党以外の政党や団体との反ファシズム共同行動に道を開くものとなった。統一戦線と並ぶもう一つの関連は反戦平和の問題で,ナチズムの台頭が呼び起こした戦争への不安のもとで,反戦の課題が反ファシズムと結合させられた。32年アムステルダム,33年プレイエルで開かれた国際反戦大会に発するアムステルダム・プレイエル平和運動が反ファシズム運動の一翼を担ったことに示されるように,戦争への脅威が反ファシズムの動機として強調される状況がこの時期に出てきた。これらの運動には知識人や作家が積極的に参加したのが特徴であり,共同行動と反戦平和の2問題を含んだ反ファシズムの延長線上に人民戦線が生じる。

人民戦線はファシズムの阻止を目ざしたフランスにおいて最初に試みられ,さらに35年夏に開かれたコミンテルン第7回大会が平和と民主主義の擁護のための反ファシズム人民戦線の形成を各国共産党の方針としたことで国際的な広がりをみた。個人ごと集団ごとに反ファシズムが多様なあり方をとるという場合,そこにはファシズム観の違いならびにファシズムに代わる政治と社会の体制をどう構想するかという問題がかかわっていたが,人民戦線においてはファシズムと民主主義が対置されて,反ファシズムの課題が民主主義の擁護にあることが強調された。しかしこの場合,肝心の擁護すべき民主主義の性格についての議論が十分に尽くされなかったために,人民戦線の経験をめぐっては,のちにさまざまな評価に分かれた。スペインはフランスと並んで人民戦線政府が成立した国であるが,軍部の反乱で内戦(スペイン内乱)が勃発すると,ドイツ,イタリアが反乱側に荷担し,これに対して政府防衛のためには各国から義勇部隊が到着し,国際的なファシズムと反ファシズムの対決の舞台となった。イタリア人のロッセリも亡命地からいち早く義勇隊を率いて戦闘に加わったが,彼の発した〈今日はスペインで,明日はイタリアで〉のスローガンは,この時点での国際的な反ファシズムの結節点がスペインにあることを明らかにするとともに,各国における反ファシズム運動の方向を予見するものとなった。

第2次大戦中にドイツ,イタリアに占領された国々では,その規模と形態に違いはあれ,占領軍に対するレジスタンスが起こった。レジスタンスは広い意味で反ファシズムの一環をなすものであるが,その関係は必ずしも単純ではない。レジスタンスの直接の目標は,自国を占領軍から解放することであったが,そこには大きく分ければ二つの立場が存在しえた。一つは,自国内部の政治・社会構造に手をつけずに,ただ占領軍の追放のみを課題とする狭い意味でのレジスタンスであり,もう一つは,占領軍からの解放の過程で自国内部のファシズム的要素を一掃し,政治・社会の改革を図ろうとする広義のレジスタンスの立場であった。この二つの立場の協力,競合,対抗の関係が諸国のレジスタンスの性格を決定したといえるが,これにはさらに連合国軍とソ連軍の介入がからんできて複雑な様相を呈した。第2次大戦はドイツ,イタリアの敗北をもって終わるが,この第2次大戦とレジスタンスを通じて,各国ごとに,また国際的にどのような反ファシズムが達成されたのか,あるいは達成されなかったのかを考えることは重要である。このことは,第2次大戦後になお絶えず反ファシズムの課題が提起されてくることと関係するし,また第2次大戦後の反ファシズムのあり方を考えるうえでも必要なことである。
人民戦線 →ナチス →ファシズム →レジスタンス
執筆者:

日本においては反ファシズム運動の大規模な展開はなかった。その理由はいろいろ考えられるが,まず政党勢力が無産政党を含めファシズムに対立することが少なく,むしろ逆に,内部から親軍・親ファシズムのグループを生んだこと,労農団体などの大衆組織も,中心勢力が反ファシズム運動をほとんど組織しなかったこと,知識人の若干の反ファシズム的動きは一般大衆の支持を得られず崩壊したことなど,反ファシズム運動の組織化の貧弱さ,大衆的基盤の弱さが挙げられる。そのうえ,日本においては,反ファシズム的運動や思想表現に対しては,弾圧がきわめて激しかった。

 1931年9月の満州事変以後,無産政党内部で親軍グループが続出したが,社会民衆党全国労農大衆党の主流はなお〈反ファシズム〉〈ファッショ粉砕〉の方針を堅持していた。共産党は厳しい弾圧下で反戦運動を展開していたが,他面〈社会ファシズム論〉により二つの無産政党を批判し,左翼運動内で反ファシズム統一運動はなされなかった。共産党の無産政党批判は,35年コミンテルン第7回大会で反ファシズム統一戦線路線が打ち出されるまで続いた。しかし,このときにはすでに社会大衆党(前記の2政党が1932年7月合同したもの)自体がファシズム化していたうえ,共産党は弾圧され中央委員会は解体していた。また,労農団体は政党追随的で,おおむね無産政党の支配下にあり,独自に反ファシズム運動を組織することは少なかった。そのなかで1934年11月結成された全評(日本労働組合全国評議会)が組織目標に〈ファッショ,社会ファッショ反対〉を掲げ,37年まで反ファシズム運動を進めたことが注目されよう。

 知識人の動きは,1933年4月の滝川事件に際して結成された大学自由擁護連盟,ナチスの焚書に対する抗議を契機に同年7月結成された反ナチス団体ともいえる学芸自由同盟長谷川如是閑,徳田秋声,秋田雨雀,三木清ら)に示された。共に長くは続かなかったが,コミュニストや社会主義者よりもリベラル派が中心に結集した広範なグループで,明確な反ファシズム運動を形成した。前者の系統からやがて,《世界文化》(1935年2月創刊),《土曜日》(1936年7月創刊)などによる関西知識人の反ファシズム文化運動が生まれ,後者に加わっていたかなりの人々は,反ファシズムの雑誌《社会評論》(1935年3月創刊)や《労働雑誌》(1935年4月創刊)の執筆者となった。ファシズム批判を公然と自らの著書名として刊行した著名な知識人は,長谷川如是閑と河合栄治郎であった。長谷川の《日本ファシズム批判》は,1932年11月刊行で,マルクス主義の色濃い影響下にファシズムを論じている。また河合の《ファシズム批判》は,34年12月の刊行で,リベラル派のファシズム観をよく示している。共にファシズム自体を対象化し,批判することを軽んじた日本において,貴重な業績であったといえよう。

 ほそぼそと続いていた各地の反ファシズム運動は,1937年日中戦争開始ころまでに,ほとんど弾圧され,反ファシズム的知識人も,37-38年ころまでに多数が検挙された。拘禁されなくても,自由な言論は許されず,ファシズム批判の運動や言論は消えていった。日独伊三国軍事同盟締結と大政翼賛会,大日本産業報国会の結成は,40年のことであったが,このときにはすでに反ファシズムの組織と言論は皆無に近かった。
執筆者:

国際的な反ファシズム文化運動の先駆としては,反戦を掲げてロマン・ロランとバルビュスが呼びかけ,ゴーリキー,アインシュタイン,ドライサー,ドス・パソスらが発起人に名を連ねる,1932年8月アムステルダムの国際反戦大会に29ヵ国2200名を集め,翌年パリで第2回大会を開催した〈アムステルダム・プレイエル運動〉,フランスの急進社会党代議士ベルジュリが主唱し,J.R.ブロック,ビルドラックらの協力した33年5月結成の〈反ファシズム共同戦線〉,ジッド,マルローらによる〈革命作家芸術家協会〉の33年における反ファシズム運動などがあげられる。しかし,それが政治的立場を超えた知識人の統一運動として定着するのは,34年の2月6日事件をまたなければならない。フランスでは33年以来のスタビスキー事件を通じて政界の腐敗が危機感を煽りたてていたが,ナチスによるドイツ制覇に連動して,2月6日極右派が民衆を扇動し共和制打倒の一大騒擾事件をパリで引き起こしたのである。これに対して労働組合をはじめとする左翼勢力は共和制擁護のためゼネストをもって応え危機を一応脱しはしたが,この事実は多くの知識人に危機意識を抱かせ,人類学者ポール・リベ,物理学者ランジュバン,哲学者アランの提唱により3月に〈反ファシスト知識人監視委員会〉が組織され,ジッド,マルローはじめ,アラゴン,ニザン,ブルトン,ゲーノ,R.マルタン・デュ・ガール,バンダら,1200名の知識人が参加したのであった。この委員会はなお対立を続けていた社共両党の協力を説き,事実上人民戦線結成の触媒の役割を果たした。

 そして翌35年,これらフランス知識人はファシズムに対する文化の擁護を訴え,6月パリに24ヵ国230名の文学者を集め,第1回〈文化擁護国際作家会議〉を開催する。外国からの参加者には,ハインリッヒ・マン,ブレヒト,ムージル,ゼーガースハクスリー,バーベリ,エレンブルグらがいた。〈作家会議〉は,翌年ロンドンで書記局総会,37年7月内戦下のマドリードとパリで第2回大会を開催し,さらにネルーダ,スペンダー,オーデンらの参加をみた。と同時に,1936年のスペイン,フランスにおける人民戦線政府の成立が,こうした知識人の国際的な連帯感を強化し,同年7月に始まるスペイン内乱に際しては,義勇兵として直接戦闘に参加したマルロー,シモーヌ・ベイユ,オーウェル,コンフォードらをはじめ,J.R.ブロック,ヘミングウェー,エレンブルグなど多くの知識人をスペインに赴かせた。反ファシズムの立場を宣明する《バンドルディ》(〈金曜日〉の意。日本の《土曜日》の名称はこれにならった)以下おびただしい数の週刊誌が,主としてフランスで作家や知識人の手で創刊されだすのも,この時期にほかならない。このほか,従来右翼作家とみなされてきたモーリヤック,ベルナノスらがスペイン内乱の現実を目にして反ファシズムの陣営に加わったことも記しておこう。とはいえ,36年末刊行のジッドの《ソビエト旅行記》,そのころからしだいに西欧に広がりだしたソ連の粛清裁判への疑惑,さらに37年5月のスペイン共和政府内における共産党によるアナーキストトロツキストの粛清といった一連の事実が,共和政府側に不利に展開しだした戦局とともに,反ファシズム戦線に亀裂を生じさせていったことは否定できない。こうして38年9月のミュンヘン協定前後の,迫りくる世界戦争の危機をなんとしても回避しようという厭戦気分のなかで,西欧の反ファシズム運動は消滅していく。

 このような西欧における運動は日本の知識人にも影響を与えずにはおかなかった。〈反ファシスト知識人監視委員会〉の運動を紹介した,1934年10月の小松清の〈仏文学の一転機〉は大きな反響を呼び,知識人の行動と連帯が雑誌《行動》を中心に広く論議されるが,左翼教条主義の立場からの攻撃で翌年半ばには反ファシズム戦線の萌芽は踏みにじられてしまう。次いでフランスの人民戦線政府に触発されて36年から37年にかけて,舟橋聖一らの〈行動文学〉,林房雄の〈独立作家クラブ〉,1935年成立の〈日本ペンクラブ〉,京都の中井正一らの《世界文化》と《土曜日》などの雑誌,新聞,組織,さらに三木清,中島健蔵,清沢冽らの個人が,ヒューマニズムの提唱というかたちでファシズムへの抵抗を呼びかけるが,37年の日中戦争開始とともに,それらの動きはことごとく一掃されてしまうのである。
レジスタンス文学
執筆者:

イタリアの文学史は20世紀の圧倒的なファシズム支配下の時代を指して,しばしば〈黒い20年間〉と呼んでいる。それはしかし,両大戦間の《ボーチェ》《ロンダ》両誌の体制順応主義を克服し,解放戦争から50年代にかけて開花する,いわゆるネオレアリズモの土壌となった,〈反ファシズムの文学〉への苦渋に満ちた転生の時代でもあった。

 ファシズム政府は1926年までに,トリノを中心に,〈イタリアの革命〉をめぐって最も鋭くファシズムに対決する思想運動の二つの流れ,ゴベッティの《自由主義革命》とグラムシらの共産主義の運動とを,暴力的に--前者は亡命,客死,後者は逮捕,投獄--封じた。徹底した独裁体制のもとで,志ある作家は検閲→執筆禁止→逮捕・流刑もしくは亡命を余儀なくされた。そのような状況下で無名の作家モラビアの《無関心な人びと》(1929)はファシズム治下のブルジョアの生態を仮借なく描き出したため没収となり,またアルバーロが南部農民の貧困を見すえた《アスプロモンテの人びと》(1930)はネオレアリズモの地方主義の先駆をなした。ゴベッティの雑誌《バレッティ》の後を継ぐ《ソラーリアSolaria》誌にビットリーニが厳しい検閲をうけつつ《赤いカーネーション》を発表(1933-36),ビットリーニは同時にプラトリーニ,ビレンキとともにフィレンツェのファシズム機関誌《バルジェーロ》誌上で初期ファシズムの反ブルジョアの方向を強く主張した。同じころトリノで《働き疲れて》(1936)の詩作と翻訳活動に努めていたパベーゼが逮捕,流刑された。孤立した位置にあって容易ならざる実験的な小説を発表したガッダのような作家はいたが,もはや,ファシズムにすりよる作家か,シローネのように外国にある者以外には,自由な作品発表の余地はないというに等しかった。

 1936年,スペイン内乱が勃発,ムッソリーニのフランコ側援助に対して,イタリア人の反ファシズム活動家4000人が共和国軍に身を投じた。ファシズムの何たるかをまぎれもなくみせたこのスペイン内乱のさなかにビットリーニは,《ソラーリア》の後継誌《レッテラトゥーラ》に《シチリアでの会話》を掲載,〈損われた世界〉を前に彷徨する〈私〉の苦悩を新しい文体で描き,パベーゼの《故郷》(1941)とともに(付け加えるならばモンターレの詩とともに),創作での最大限の抵抗を実現し,この2作はネオレアリズモの道標となった。パベーゼ,ビットリーニがともに翻訳・紹介に尽くしたアメリカ文学が,自由な創作の禁じられた30,40年代のイタリア文学に大きな活力を与えたことは注目される。そうして43年のファシズム体制の破産--休戦協定の発効を契機に,広範な大衆の自発的な力に依拠したレジスタンスを戦い抜くなかでイタリア文学は新生をなしとげ,このパルチザンの戦いに同伴する形で歌が,闘争紙が,そして詩が,小説が無名の作者たちにより大量につくられた。そしてカルビーノフェノリオヨービネ,スコテラーロRocco Scotellaroらネオレアリズモの嫡子を輩出する。しかしながら,独房で10年間の孤独な戦いを貫いたグラムシの《獄中からの手紙》(1947),《獄中ノート》(1948-51)と,レジスタンスの刑死者の最後の声を集成した《イタリア抵抗運動の遺書》(1952)こそは,それが戦後のイタリア文化に与えた計り知れない力からみても,反ファシズムの文学の最良にして最大の〈作品〉といっても過言ではない。
ネオレアリズモ
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世界大百科事典(旧版)内の反ファシズムの言及

【ネオレアリズモ】より


【文学】
 字義通りには〈新しいリアリズム〉を意味するイタリア語で,文学史的にはふつう,反ファシズム闘争を題材にした第2次大戦後のイタリア文学を総称していう。ただし,ファシズム政権に不従順な小説を発表したことからモラビアの《無関心な人びと》(1929)に,また,労働者の反権力意識の目ざめを描いたことからベルナーリCarlo Bernari(1909‐92)の《三人の工員》(1934)に,ネオレアリズモの起源を求めようとする批評家もいる。…

【レジスタンス】より

…第2次世界大戦期,枢軸国,とくにドイツの占領下に置かれた諸地域において起こった,占領支配に対する抵抗運動。広義には,中国の抗日闘争をも含めて,アジア諸地域における日本の占領支配への抵抗にも,この言葉が用いられることがあるし,また他方,ナチズムに対する抵抗というような,ファシズム体制へのそれぞれの国の反対の動きに関して用いられる場合もあるが,後者は反ファシズム運動として扱われるものであり,ここではヨーロッパに限定して占領支配への抵抗の意味でみていくことにする。 フランス語のこの言葉が上のように一般化して用いられるようになった端緒は,フランス降伏後の1940年6月18日,ロンドンに逃れたド・ゴールが,BBC放送を通じてフランス国民に呼びかけた〈フランスのレジスタンスの炎は消え去ってはならないし,また消えることはないであろう〉という言葉にあるとされている。…

※「反ファシズム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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