古屋誠一(読み)ふるやせいいち

日本大百科全書(ニッポニカ) 「古屋誠一」の意味・わかりやすい解説

古屋誠一
ふるやせいいち
(1950― )

写真家。静岡県生まれ。1972年(昭和47)に東京写真短期大学(現東京工芸大学)を卒業。翌年シベリア経由でヨーロッパに向かい、ウィーンアムステルダム東ベルリンなどを経た後、87年よりオーストリアグラーツに住む。以後、ヨーロッパ各地で精力的に作品を制作、発表する。また、『カメラ・オーストリア』Camera Austria誌の編集や芸術家団体フォルム・シュタットパルクForum Stadparkに参加し、日本の写真家をヨーロッパに紹介するなど、幅広い活動を展開している。旧ユーゴスラビア、旧チェコスロバキア、ハンガリー、旧東ドイツなど、オーストリアが隣接する国々の国境地帯の写真にテキストを添えた「国境 Staatsgrenze」シリーズ(1980~83)や、ベルリンの壁を東側から撮影した「国境の壁 Limes」シリーズ(1983~88)などを発表している。1989年(平成1)にヨーロッパ・コダックブック賞、90年に写真の会賞、92年東川(ひがしかわ)町国際写真フェスティバル新人賞、2002年に伊奈信男賞ほか、国内外で受賞多数。

 代表作は妻クリスティーネ・フルヤ・ゲッスラーChristine Furuya-Gösslerを写した作品である。クリスティーネとの出会いから彼女の死によって別離が訪れるまで、古屋は彼女の写真を撮り続けた。そして、彼女の写真はメモアールと題された3冊の写真集『Mémoires』(1989)、『Seiichi Furuya, Mémoires 1995』(1995)、『Christine Furuya-Gössler, Mémoires 1979-1985』(1997)にまとめられている。これらに収められた写真はクリスティーネの肖像であるだけでなく、それぞれの写真集が編まれた時点での彼のクリスティーネに対する姿勢であり、彼にとっての「今」のクリスティーネの肖像である。特に3作目の『Christine Furuya-Gössler, Mémoires 1979-1985』には出会いから別れまでの265点の彼女の肖像が掲載され、それぞれの写真にはデータとそのころのできごとや2人の関係の記述があり、できうるかぎり起こったことを客観的に記そうとする彼の意志によって貫かれている。亡きクリスティーネに正面から向かい合おうとする古屋の覚悟が伝わってくる。この写真集は前年につくった彼自身のためだけのたった1冊の写真集『ファイル:Portrait von Christine』に基づいているという。残されたコンタクトプリント(ベタ焼き)や手帳手紙もとにして記憶を遡(さかのぼ)って写真の裏に記録したファイルである。それは古屋がグラーツで出会い、結婚し、最後にはアパートの9階の連絡通路の窓から身を投げてしまう「クリスティーネ」と、今もともに生きている古屋の記録である。愛し合いながらも決して十全には理解し合うことがない、どちらかがどちらかを支配することも従属させることもない、独立した孤独な人間同士がぎりぎりまで見つめ合い、対峙し合った関係の記録である。

[笠原美智子]

『『Christine Furuya-Gössler, Mémoires 1978-1985』(1997・光琳社)』『AMS (1981, Camera Austria, Graz)』『Mémoires (1989, Camera Austria, Graz)』『Portrait (200l, Fotohof, Salzburg)』『Seiichi Furuya, Mémoires 1995 (1995, Scalo/Fotomuseum Winterthur, Züich)』『「はるかな空の下で 日本の現代写真」(カタログ。1993・東京都写真美術館)』『「ラブズ・ボディ ヌード写真の近現代」(カタログ。1998・東京都写真美術館)』

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