日本歴史地名大系 「古戸村」の解説 古戸村ふつとむら 群馬県:太田市古戸村[現在地名]太田市古戸利根川の左岸に位置し、近世までは邑楽(おうら)郡に属した。西は新田(につた)郡高林(たかはやし)村、対岸南は武蔵国幡羅(はたら)郡妻沼(めぬま)村(現埼玉県大里郡妻沼町)、北は寄木戸(よりきど)村(現邑楽郡大泉町)、東は仙石(せんごく)村(現同上)。古くから上武両州を結ぶ交通の要地で、南北に古戸道が貫き、古戸渡で妻沼村と結ばれた。また利根川縁には古戸河岸があった。享徳五年(一四五六)一月二七日岩松持国は足利成氏より下野佐野(さの)庄、武蔵太田庄の敵を討つために当地への出陣を命じられている(「足利成氏書状写」正木文書)。 古戸村ふるどむら 千葉県:我孫子市古戸村[現在地名]我孫子市古戸中峠(なかびよう)村の東にあり、北は利根川が西流し、南の日秀(ひびり)村新田との境を成田に至る道が通る。天正一八年(一五九〇)小金(こがね)城主松平氏領で、江戸時代に入ると幕府領になったとされるが未詳。天正二〇年四月五日の勝鹿郡仲相馬之内古戸村検地帳(阿曾家文書)では反別三六町六反余のうち上田三町五反余・中田三町四反余・下田一一町六反余、上畑一町余・中畑四町余・下畑一二町八反余、屋敷三反。寛永二年(一六二五)の知行宛行状に村名がみえ、高五石余が旗本小栗領、高一九四石余が同建部領。貞享四年(一六八七)旗本川口領となり、同領分は幕末に至る。同五年の相馬郡中相馬古戸村田帳畑帳(阿曾家文書)では田二二町三反余・畑一四町三反余。 古戸村ふるとむら 新潟県:東頸城郡松之山町古戸村[現在地名]松之山町古戸越道(こえどう)川左岸に位置し、南は観音寺(かんのんじ)村、川を挟み南東は猪野名(いのみよう)村。大松(たいしよう)山に源を発する川が当村の北で越道川に合流する。正保国絵図に高六石余。天和三年郷帳では高八石四斗余、反別田六反余・畑屋敷一反余・山林四畝余・青苧畑一畝余で、漆木一九本、家数二。 古戸村ふつとむら 愛知県:北設楽郡東栄町古戸村[現在地名]東栄町振草(ふりくさ)古戸山の北西麓にある。村域内を海老(えび)街道がほぼ南北に通じる。南は粟代(あわしろ)村。延宝八年(一六八〇)の検地で三〇四石余を検出。幕末の戸口は九四戸・五二九人(北設楽郡史)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by