日本歴史地名大系 「知多市」の解説 知多市ちたし 面積:四五・九五平方キロ知多半島の北部、伊勢湾沿いに位置し、住居地は西浦(にしうら)街道沿いの海岸部と丘陵地帯の狭間に発達。知多の名は、知多半島(郡)の名をとって三町合併の昭和三〇年(一九五五)に付けられた。〔原始〕市の中央北寄り、海岸からやや東に入った丘陵地帯に縄文早期末の二股(ふたまた)貝塚があり、石鏃や土器を出土。縄文期の海岸はこの辺りまで迫っていたと思われる。次いで縄文前期の森西(もりにし)貝塚、縄文後期の大草北(おおくさきた)貝塚、縄文晩期の大草南貝塚・西屋敷(にしやしき)貝塚がある。森西・大草南北の貝塚は知多市の南端および常滑(とこなめ)市北端を併せたいわゆる大野谷(おおのだに)の台地にあり、ここには遺跡が多い。森西貝塚からはハイガイを中心とした貝や、黒曜石の石鏃、土器が出土した。弥生文化としては、前期に荒古(あらこ)遺跡があり、遠賀川(おんががわ)式土器と水神平(すいしんびら)式土器の二系統がみられ、東西の接点として興味深い。弥生中期には、野崎(のざき)・獅子懸(ししがけ)の遺跡がある。野崎遺跡の土器の表面には籾痕がある。弥生後期の大迫間(おおはざま)遺跡は外敵を防ぐ堀をもつ。古墳時代には岩之脇(いわのわき)・椿(つばき)・寺山(てらやま)の後期古墳が存在する程度。直径約一〇メートル・高さ約二メートルの鶏鳴(けいめい)塚とよばれる寺山古墳の墳丘はよく保存されている。〔古代〕海岸線に沿って製塩遺跡がある。平城宮跡から発見された「尾張国智多郡贄代郷朝倉里 戸主和尓部色□(夫カ)智 調塩三斗 天平元年」の木簡は、調として塩を都へ納めていたこと、朝倉(あさくら)の地名が奈良時代までさかのぼり、その戸主が和爾部氏であったこと、当市域がほぼ「和名抄」の贄代(にえしろ)郷に含まれること(現寺本は番賀郷に入ると考えられる)を示す貴重な資料である。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「知多市」の意味・わかりやすい解説 知多〔市〕ちた 愛知県知多半島の基部にあり,伊勢湾にのぞむ市。 1955年八幡,旭,岡田の3町が合体して知多町となり,70年市制。岡田地区を中心に古くから綿織物工業が盛ん。天明年間 (1781~89) に中島七右衛門らが松阪木綿の技術を導入し,地元産の原綿を利用して「知多さらし」を製造,尾張藩の奨励策と木綿問屋の設置により発展。現在は輸出向け広幅物が多い。八幡地区は良質のノリの養殖が盛んであったが,伊勢湾岸の埋立て地の造成によって,1960年代から火力発電,製粉,製油などの工場が操業し,急激に工業化した。丘陵地には愛知用水が通じ,野菜栽培や花卉,観葉植物の栽培も行われる。尾張知多万歳,朝倉の梯子獅子は県の無形文化財に指定。民俗資料館は漁労関係,木綿関係の道具が集められている。面積 45.90km2。人口 8万4364(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by