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史可法 しかほうShi Ke-fa; Shih K`o-fa

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

史可法
しかほう
Shi Ke-fa; Shih K`o-fa

[生]?
[没]順治2(1645).4.28. 揚州
中国,明末の忠臣。祥符 (河南省開封) の人。字は憲之。号は道鄰。諡は忠正。崇禎1 (1628) 年の進士。西安府推官を振出しに,明末流賊の討伐に従い,累進して明の滅亡時 (44) には南京兵部尚書の地位にあった。 潞 (ろ) 王を立てようとして馬士英らに妨げられ,やむなく福王を立てたが士英の専権を喜ばず,請うて揚州に鎮した。清軍の進攻にあたって凄惨な守城戦を展開したが,捕われて殺された。このとき,清よりの降伏勧告を拒絶した書状は有名である。

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世界大百科事典 第2版の解説

しかほう【史可法 Shǐ Kě fǎ】

?‐1645
中国,明末の忠臣。祥符(河南省開封)の人。字は憲之。号は道鄰。崇禎1年(1628)の進士張献忠の乱の討伐に功をたて,ついに南京兵部尚書となった。明の滅亡に際し,南京にて潞王を立てようとしたが馬士英(1591?‐1646)らに妨げられ,やむなく福王を立てた。しかし馬士英の専権に反対し,みずから請うて揚州に出鎮し清軍と敵対した。このときの激戦の状況は《揚州十日記》にくわしい。最後に彼は清軍に捕らわれ殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

史可法
しかほう
(?―1645)

中国、明(みん)末の忠臣。河南祥符(しょうふ)(開封(かいほう))の人。字(あざな)は憲之(けんし)。号は道鄰(どうりん)。諡(おくりな)は忠靖(ちゅうせい)、のち忠正と改められた。1628年進士。清(しん)の入関時、南京(ナンキン)兵部尚書。崇禎帝(すうていてい)の死後、南京では弘光帝(福王)が即位したが、馬士英(ばしえい)は史可法の国政担当を嫌い揚州に遠ざけた。史可法は江北の四強(劉沢清(りゅうたくせい)、高傑、劉良佐、黄得功(こうとくこう))を統率して清軍の南下を食い止めようとしたが、南京朝廷は兵糧を送らず、四強も互いに争い失敗に終わった。清の睿(えい)親王ドルゴンは史可法に書を送り降伏を勧めたが、史可法は弘光帝こそが正統な君主であると反論、45年5月揚州陥落時に捕らえられて殺された。『史忠正公集』がある。[岡本さえ]

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