吉方村(読み)よしかたむら

日本歴史地名大系 「吉方村」の解説

吉方村
よしかたむら

[現在地名]鳥取市吉方・吉方一―二丁目・吉方温泉よしかたおんせん一―四丁目・南吉方みなみよしかた一―三丁目・末広温泉町すえひろおんせんちよう永楽温泉町えいらくおんせんちよう弥生町やよいちよう興南町こうなんちよう富安とみやす一―二丁目・立川町たちかわちよう五丁目

鳥取城下の南、城下を出た若桜わかさ往来が最初に通過する村で、村内をふくろ(旧袋川)が流れる。一条兼良が著した「桃華蘂葉」の嵯峨禅恵院(恵林寺塔頭)の項に「鳥取吉方郷」とみえ、同郷は禅恵院領で、守護山名氏被官の請地であったが応仁の乱後、その実態を失ったという。永禄八年(一五六五)六月二六日の国造勝世売券(因幡民談記)によれば、吉方之内町屋田一町(斗代六斗代・代方六七文宛・升物三升宛)が、上分作職とともに西郷因幡守に八貫文で売却されている。

藩政初期は上・下二村に分れていたが、元禄国絵図作成時に上吉方村が下吉方村を合併した(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。元禄郷帳および正徳元年(一七一一)郷村高辻帳には上吉方村とみえる。享保元年(一七一六)の郷村高辻帳では付箋に吉方村と記し、以後天保郷帳などでは吉方村となっているが、通称は古くから吉方村であったとみられる。「鳥府志」は当時、うえ町の観音院を吉方の観音院と称したことなどから、以前は鳥取城下の上町・てら町・大工だいく町・江崎えざき町の辺りは下吉方村の領分であったと推測している。「因府録」も吉方観音院と記し、「因幡志」も観音院の所在地を吉方松崎まつざきと記している。当村の領分は広く、幕末には袋川を挟んで城下側を内吉方うちよしかた、外側を外吉方そとよしかたと称した(在方諸事控)

藩政期の拝領高は一千七六石余、本免五ツ三分。安政五年(一八五八)の生高一千一一〇石余、うち二〇〇石は興禅こうぜん寺領、物成は五八七石余。山役米八石三斗余、宇倍野うべの(現稲葉山)の保護を目的とした宇倍野山役米八斗余、藪役銀九分余が課せられていた(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)。「因幡志」によれば家数二一・茶屋一三五・侍屋敷一二〇。安政五年の村々生高竈数取調帳では竈数四一一、うち家中屋敷一八五。

吉方村
よしかたむら

[現在地名]余目町吉方

境興屋さかいこうや村の東、京田きようでん川東岸にある。地名は開拓以前まで一面の葦原であったので葦方と名付けられたというが(十六合史)、寛永三年庄内高辻帳と同一四年(一六三七)の庄内村々高辻(酒井家文書)には吉潟よしかた村と記す。元和九年(一六二三)に渡部万右衛門と上野兵右衛門という二人の浪人によって開かれたと伝わる(十六合史)。寛永元年庄内高辻帳には吉方村亥ノ興三五〇石余、正保二年(一六四五)の庄内村々高辻(酒井家文書)では高七八二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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