吉永村(読み)よしながむら

日本歴史地名大系 「吉永村」の解説

吉永村
よしながむら

[現在地名]豊浦町大字吉永

北は法事ほうじ川を境に川棚かわたな村、東は豊浦山地で内日うつい(現下関市)、南は豊浦山地より舌状に西に延びる丘陵を境に黒井くろい村に接し、西はひびき灘に面する。豊浦山地から西に流れる吉永川の土砂の堆積による小沖積地が、平地の大部を占める。長府藩領で西豊浦郡中支配に属する。

吉永は文治元年(一一八五)九月七日付の源範頼下文案(長門一宮住吉神社文書)に「豊西郡内吉永別符」とみえ、長門一宮住吉すみよし神社(現下関市)の社領とされている。


吉永村
よしながむら

[現在地名]丹後町吉永

依遅いち山の西南麓、岩木いわき村・是安こりやす村の間、東方に位置し、西・南は開けて竹野川の支流力石ちからいし川が流れる。

吉永の名は丹後国田数帳に、

<資料は省略されています>

と現れる。中世末の丹後国御檀家帳に「吉長の御城 御城に御内衆の家五拾軒斗あり」「吉長の内たん」「吉長の内いかん谷」「吉長の屋はた」「吉長の内寺谷」と記される。「吉長の御城」とある地がのちの吉永村、「たん」は一之段いちのだん村、「屋はた」は矢畑やばた村、「寺谷」は是安村をさすと考えられる。


吉永村
よしながむら

[現在地名]大田市川合町吉永かわいちようよしなが大田町吉永おおだちようよしなが

大田南村の西に位置し、村の中央部を静間しずま川が北流する。南は川合村、西は邇摩にま行恒ゆきつね村。中世は吉永郷とよばれた。寛永二〇年(一六四三)加藤明友は安濃あの郡大田で一万石を与えられたが、このとき当村に陣屋が置かれ吉永藩が成立した(天和二年近江国水口へ転封)正保国絵図に村名がみえ、高六五五石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によると田方五六四石余・畑方一四三石余、年貢高は米二三一石余・銀一貫一〇六匁。


吉永村
よしながむら

[現在地名]鳴門市大津町吉永おおつちようよしなが

斎田さいた村飛地の南にあり、北を新池しんいけ川がほぼ東流する。きた用水堀中江なかえ用水堀・新溜池などがある低湿地。もとは入海であったが、万治年間(一六五八―六一)段関だんぜき村開発者吉成善太夫の子次郎三郎が開拓を手がけ、寛文年間(一六六一―七三)に子孫の吉左衛門により功成ったと伝える(「申上書」山田家文書)。当初北大須きたおおず(北大津)村と称したが、宝永七年(一七一〇)に吉永村に改称したという(郡村誌)。天和二年(一六八二)の富田藩領地方帳には北大津村とあり、高六一七石余、請三ツ五分、物成二一六石余、内麦二二石余、老若人数一一七。文化一〇年(一八一三)の高都帳には吉永村とあり、高五三三石余。「阿波志」によれば土田は等中下、水田一〇〇分の九四、反別五七町余、家数五七。


吉永村
よしながむら

[現在地名]大井川町吉永

吉永利右衛門よしながりえもん分の北東に位置し、南東は駿河湾に面する。中世には吉永郷とよばれた。文禄二年検地高目録に村名がみえ、高一千三一八石余。慶長九年(一六〇四)八月の榛原郡初倉庄吉永村御縄打水帳(明治大学刑事博物館蔵)が残る。寛永一二年(一六三五)の山西領水野監物知行渡村之帳に吉永村之内高一千四八〇石余とあり、当村の一部が田中藩領であった。


吉永村
よしながむら

[現在地名]甲西町吉永

山夏見やまなつみ村の東にあり、北を野洲やす川が西流し、南は山地。東海道に沿って街村をなす。村内を大砂おおすな川が流れ、天井川となる。中世は六角氏麾下の三雲氏の支配を受けたものと思われ、南方に三雲みくも城跡があり、高石垣の一部が残る。天正一九年(一五九一)四月の徳川家康知行目録写(大谷文書)に吉永四一七石余とみえ、家康の在京賄料に充てられた。寛永石高帳では膳所藩領、天明村高帳では京都所司代牧野貞長領、山城淀藩領となって幕末に至る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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