吉里村(読み)よしさとむら

日本歴史地名大系 「吉里村」の解説

吉里村
よしさとむら

[現在地名]広川町新代にいしろ

古賀こが村の南西に位置する。中世広川庄のうち。天福二年(一二三四)二月日の坂東寺所役注文案(岡本文書/鎌倉遺文七)に「吉里名十三町四反 分銭四貫廿文」とみえ、広川庄鎮守社造営料足反別三〇文のほか、正月九日会の饗膳六膳、相撲一人を賦課されている。嘉禎三年(一二三七)には鎮守社の釘貫(柵)二間を賦課されている(同年九月二八日「公文所下文案」同上)

吉里村
よしさとむら

[現在地名]瀬高町河内かわち

ひらき村の東、飯江はえ川北岸にある。北東長島おさじま村。寿永元年(一一八二)八月一六日の瀬高下庄公文所下文写(「鷹尾社祭礼関係文書写」鷹尾家文書/平安遺文八)によると、鷹尾たかお(現大和町)への饗膳酒肴調進を課された名として吉里二名がみえる。いっぽう正和三年(一三一四)三月一日の北条政顕下知状(石清水文書/大日本古文書四―六)では、香椎宮領本吉もとよし庄内の吉里・弘安ひろやす両名の神用米の皆済が蒲池余一入道へ命じられている。この本吉庄内吉里名が前出瀬高下せたかしも庄内の吉里名と同一地かは不明。天正一一年(一五八三)頃のものとみられる年月日欠の田尻鑑種本領村数等覚書(田尻家文書/佐賀県史料集成七)にみえる「よしあと」は当地であろう。

吉里村
よしざとむら

[現在地名]塩沢町吉里

片田かただ村の西、北は思川おもいがわ村。集落魚野うおの川支流の鎌倉沢かまくらざわ川左岸と、西方栃窪とちくぼ峠へ至る途中のいわしたにある。「新編会津風土記」には岩下いわのした新田やま新田の枝村を記す。年不詳の上葺萱注文(雲洞庵文書)雲洞うんとう庵の上葺萱を供出する地に「四千把 吉里 発智」がみえる。正保国絵図に高五四〇石余とある。天和三年郷帳では高四二八石四斗余のほかに同所新田高五四石五斗余と、岩下新田高三一石一斗余とその新田「山新田」一七石八斗余が記される。

吉里村
よしざとむら

[現在地名]和歌山市吉里

名草なくさ郡に属し、西は相坂そうざか村。中世以来の熊野街道(小栗街道)に沿う。街道は奥須佐おくすさ村から境原さかいばら村に至る六尺幅の道である(「道巾帳」貴志家蔵)。慶長検地高目録では高五四石余。享保一一年(一七二六)の検地では高六〇石余、うち新田五石五斗余(西山東村誌)。山東組に属し、「続風土記」は家数七二、人数二八八、社寺として浄土真宗元正げんしよう(浄土真宗本願寺派)・同宗極楽ごくらく寺を記す。

吉里北部にある山伏やまぶし山南側山腹で銅鐸が発見されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

土砂災害

大雨や地震が誘因となって起こる土石流・地滑り・がけ崩れや、火山の噴火に伴って発生する溶岩流・火砕流・火山泥流などによって、人の生命や財産が脅かされる災害。...

土砂災害の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android