ベトナムの王朝(939~963)。唐林(ソンタイ市の西方)出身の呉権(ゴ・クエン、898―944)は愛州(タインホア省)から兵をおこし、交州の静海節度使矯公羨(きょうこうせん)を攻撃した。そこで公羨は五代十国の一つである南漢(広州に都する)にその援助を請うた。南漢王の劉(りゅうげん)はこの交州ベトナムの混乱に乗じてその地を支配しようと考え、その子を交王に封じ、水軍を率いさせて交州に進撃させた。すでに矯公羨を殺した呉権は南漢の水軍を白藤江の海口、クァンイェンに迎え撃ち、奇計を用いてこれを大敗させた(938)。ここに呉権は自立して王(前呉王といわれる)と称し、ハノイ北北東近くの螺城(らじょう)に都して呉朝を興した。呉権が在位6年にして死ぬと、外戚(がいせき)の楊三哥(ようさんか)が位を奪い、呉権の第2子の呉昌文を自分の子とした。兄の昌岌(しょうきゅう)の討伐を命ぜられた昌文はかえって三哥を攻めてこれを降(くだ)し、自立して南晋(なんしん)王と称し(950)、その翌年、兄の昌岌を迎え、ともに政治を行った。しばらくにして独裁となった昌岌(天策王)が954年に死んだので、その後は昌文による政治が行われることとなった。963年、昌文が死に呉朝は滅び、紅河(ホン川)デルタ地帯は群雄割拠(十二使君の分立)の時代を迎えた。なお、呉権が南漢の軍を撃退して王と称したことはベトナム独立王朝成立に大きな役割を果たした。
[河原正博]
『河原正博著「ベトナム独立王朝の成立と発展」(山本達郎編『ベトナム中国関係史』所収・1975・山川出版社)』
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