国府台村(読み)こうのだいむら

日本歴史地名大系 「国府台村」の解説

国府台村
こうのだいむら

[現在地名]市川市国府台二―四丁目など

市川村の北西、江戸川東岸に位置する。下総台地の支台、国府台の台地上を占め、古代の下総国府は同台地上に置かれていたと推定される。地名はこのことに由来し、鵠台・甲之台などとも記された。寛文三年(一六六三)には関宿せきやど(現関宿町)から曹洞宗関東僧録司三ヵ寺の一総寧そうねい寺が当地に移転、のちに同寺領が市川村から分れて当村となったと思われる。

〔中世〕

建武元年(一三三四)以前と推測される六月八日の千葉貞胤書状(弘法寺文書)に「国苻真間法(華カ)堂」、康暦三年(一三八一)二月二日の千葉満胤安堵状(同文書)にも「国苻真間法花堂」とみえる。この真間ママ法華堂は真間の地にある弘法ぐぼう寺のことを示しているが、南北朝期には国府の地名が用いられていた。戦国時代には房総進出を図る小田原北条氏とこれを迎え撃つ里見氏などとの間で戦闘が繰広げられた。天文六年(一五三七)小弓御所足利義明は安房里見義尭と結んで北武蔵をうかがったが、同七年には武蔵岩付いわつき(岩槻)城の太田資正に攻勢をかける北条氏綱と対峙することとなった。

国府台村
こうのだいむら

[現在地名]夷隅町国府台

国吉苅谷くによしかりや村の南東、夷隅川右岸に位置する。西部小倉おくら山がある。国府台の地名は国造の居館跡または郡家跡に由来するという。国府台城があったというが未詳。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に国符代村とみえ、高五四六石。正保国絵図では国府台とあり、同高。寛文四年(一六六四)の堀直景領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、苅谷藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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