土佐光則(読み)とさみつのり

改訂新版 世界大百科事典 「土佐光則」の意味・わかりやすい解説

土佐光則 (とさみつのり)
生没年:1583-1638(天正11-寛永15)

桃山~江戸初期の土佐派画家。俗称源左衛門,また右近。土佐光吉の子,または弟子と伝えられる。光吉とともに堺にあって活躍し,光吉没後の1629年(寛永6)の《当麻寺縁起》の制作には,山楽,山雪,探幽ら狩野派画人にまじり,土佐派を代表して参加。34年子の光起を伴い京都に移住,土佐派の再興を企てた。画風は《源氏物語画帖》や《人物禽虫画帖》(東京国立博物館)にみるように,金銀砂子切箔を駆使し,精巧微細に人物・草虫を描くもので,土佐派の伝統である細密画法を極端におしすすめたといえる。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土佐光則」の意味・わかりやすい解説

土佐光則
とさみつのり

[生]天正11(1583)
[没]寛永15(1638).1.16. 京都
江戸時代初期のやまと絵画家。通称源左衛門。号は宗仁,宗愬,宗恩が伝わる。土佐光吉の子 (または門人) で,光吉と同様に堺にあって狩野派と関係をもっていたと考えられ,熨斗 (のし) 家蔵の『当麻曼荼羅縁起絵巻』 (1616) の制作に参加。寛永 11 (34) 年に子光起とともに京都に移って宮廷絵所職を望んだが,光起の代にかなえられた。細密な描写で『源氏絵画帖』 (徳川美術館) ,『絵手鑑』 (東京国立博物館) ,『白描源氏物語画帖』 (フリーア美術館) を描いた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「土佐光則」の解説

土佐光則 とさ-みつのり

1583-1638 江戸時代前期の画家。
天正(てんしょう)11年生まれ。土佐光吉(みつよし)の子(一説に弟子)。土佐宗家の廃絶後,光吉とともに和泉(いずみ)(大阪府)堺の地でその画系の継承につとめる。寛永11年子の光起(みつおき)と京都にうつり,土佐家再興につとめた。寛永15年1月16日死去。56歳。通称は源左衛門,右近。作品に「源氏物語画帖」など。

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朝日日本歴史人物事典 「土佐光則」の解説

土佐光則

没年:寛永15.1.16(1638.3.1)
生年:天正11(1583)
桃山・江戸初期の土佐派の画家。土佐光吉の子または弟子と伝えられる。俗称源左衛門。光吉没後の寛永6(1629)年土佐派を代表して「当麻寺縁起絵巻」制作に参加,同11年子の光起と共に京都に移住,土佐家の再興を企てた。代表作に「源氏物語画帖」(徳川美術館蔵),「人物禽虫画帖」(東京国立博物館蔵)がある。

(榊原悟)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の土佐光則の言及

【土佐派】より

…この活況を呈した桃山画壇で,光茂の門人の中から土佐光吉が泉州堺でようやく土佐派の細画様式のみを維持して光則や広通に伝授し,他に土佐宗己(そうき)が絵屋(えや)を創立したことが知られるにすぎない。やがて,1634年(寛永11)に土佐光則と門人の広通は堺から京都に進出し,光則の子の土佐光起が宮廷の絵所預となって念願の土佐派を再興し,広通は晩年に住吉派を興して子の広澄に託した。光起による再興土佐派は,光成,光祐,光芳と続いて,光芳の子光淳と光貞の時期に2家に分かれ,幕末にいたるまで両家が絵所預の命脈を保った。…

※「土佐光則」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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