室町初期から幕末にいたるまで,おもに宮廷の絵所を拠点として日本の伝統的な絵画様式を継承・保持した画派。1414年(応永21)に描かれた京都清凉寺の《融通念仏縁起絵巻》に,各場面を分担制作した6人の画家名が記されるが,そのなかに〈土佐〉と呼ばれた2人の画家,行広と行秀の名が知られる。行広は《教言(のりとき)卿記》応永13年(1406)10月29日条に土佐将監と記され,《足利義満像》を描いたのをはじめ1443年(嘉吉3)まで活躍し,経光と号した。行秀は1413年(応永20)から24年にかけて宮廷の絵所預で,京都上京の春日に居住した画家と考えられる。2人はその活躍期や記載の仕方から,官職と居住地を異にする兄弟と推測することが可能であろう。しかも両者に共通した〈土佐〉を名のる父親の存在も仮定できるが,確認はできない。絵所預行秀の活躍期に,行広は足利義満や義持の肖像画を制作して幕府の絵師らしく行動し,のちに後崇光院,後花園天皇のサロンで絵巻を描いた。この行広と酷似した環境で活躍した画家に土佐広周(ひろかね)がいる。広周は1439年(永享11)に後小松院忌本尊の制作で記録にあらわれ,79年(文明11)《明恵上人絵巻》を土佐行定と合作,以後《土佐文書》によって87年(長享1)まで室町幕府から所領を得ていたことが知られる。広周は行広の跡目を受け継ぎ,さらに90年(延徳2)横川景三(おうせんけいざん)の肖像画稿を描いた行定に相伝する工房の主宰者だったのであろう。他方,行秀の工房は《親長卿記》文正1年(1466)6月条に記す〈春日絵所〉へと系譜する。この春日の工房の主宰者は土佐光信であろう。光信は1469年(文明1)に絵所預となったとき,すでに左近将監であった。しかも以後の半世紀余が光信の活躍期だから,行秀と光信との間に,《土佐文書》にのみ名をとどめる絵所預光弘が介在した可能性がある。春日の工房を受け継いだ光信は91年から翌92年(明応1)にかけて広周の所領をも吸収・獲得し,ちょうどこのころに14世紀中期の絵所預中御門行光を自己の始祖と崇め,土佐派工房を確立した。その工房の繊細優美な流派様式は,光信の後継者土佐光茂(みつもち),その子の光元へと継承された。しかし光茂最晩年の1569年(永禄12)に光元が40歳で戦没し,室町時代の土佐派はついに廃絶した。
禅林を中心に形成された当時新様の水墨画壇に拮抗(きつこう)して,日本独自の伝統的絵画をあらゆる領域で継承・展開させた土佐派は,応仁の乱後の変革期に新興の狩野派とも創意を競いあわねばならなかった。とくに光信,光茂の時期には,大画面の障屛画から小品の扇面画にいたるまで,金銀濃彩の華やかさと斬新なデザインが求められた。しかし,本来土佐派が創出した洛中洛外図,花木図,日月図,柳橋図などの新しい意匠は,かえって近世初期に他の諸画派で引き継がれ,そこで成熟した事実は否めない。この活況を呈した桃山画壇で,光茂の門人の中から土佐光吉が泉州堺でようやく土佐派の細画様式のみを維持して光則や広通に伝授し,他に土佐宗己(そうき)が絵屋(えや)を創立したことが知られるにすぎない。やがて,1634年(寛永11)に土佐光則と門人の広通は堺から京都に進出し,光則の子の土佐光起が宮廷の絵所預となって念願の土佐派を再興し,広通は晩年に住吉派を興して子の広澄に託した。光起による再興土佐派は,光成,光祐,光芳と続いて,光芳の子光淳と光貞の時期に2家に分かれ,幕末にいたるまで両家が絵所預の命脈を保った。だが近世土佐派は伝統の保持にとどまり,ついに個性的な画家を輩出することはなかった。この現象の解明は,京都市立芸術大学所蔵の豊富な〈土佐派資料〉などの考究にまたねばならない。
執筆者:吉田 友之
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大和絵(やまとえ)の伝統を継承して、もっとも長くその主流を占めた画派。数種類流布する「土佐系図」などでは、その画系は平安時代にまでさかのぼるが、鎌倉時代以前の部分は信憑(しんぴょう)性が薄い。画系の祖として確実に知られるのは1352年(文和1・正平7)ごろに絵所預(えどころあずかり)となったと考えられる藤原行光(ふじわらのゆきみつ)(中御門行光(なかみかどゆきみつ))である。また、土佐の呼称は藤原行広(ゆきひろ)(行光の孫か)が文献上の初出である。以後代々絵所預に任じられたりしているが、行広の次代の光弘(みつひろ)、ついで光信(みつのぶ)が輩出するに及んで、土佐派は著しく発展した。光信は宮廷絵所預であった15世紀なかばから16世紀初めまで、宮廷・幕府などのために絵画活動を行い、室町時代の大和絵制作の中心的存在であった。子の光茂(みつしげ)も、光信を継承して絵所預を務め『桑実寺縁起(くわのみでらえんぎ)』などを残している。しかし室町末期の1569年(永禄12)に光茂の長男・光元が戦死したため土佐派は後継者を失い、中央画壇からの後退を余儀なくされた。堺(さかい)に下った同派は、光吉(みつよし)(光茂の弟子か)を中心に町絵師として画系を維持したが、子の光則(みつのり)は1634年(寛永11)京都に移り、同派の再興を企てた。その子光起(みつおき)は1654年(承応3)ついに宮廷絵所預に任じられ、同派を復興した。以後、光成(みつなり)、光芳(みつよし)らが出て、江戸時代を通じて大和絵の伝統を遵守した。土佐派は中世における大和絵の担い手として重要な存在であり、また近世においては町絵の新しい興隆を促したことも特筆される。なお1662年(寛文2)に同派から出た如慶(じょけい)は住吉派(すみよしは)をおこして、江戸で活躍した。
[加藤悦子]
『サントリー美術館編・刊『土佐派の絵画』(1982)』
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室町初期以来,やまと絵の伝統を継承した画派。系譜は14世紀半ばの藤原行光(ゆきみつ)にさかのぼるとされるが,15世紀初め,行広が土佐の家名を称した。その後多くの画人を輩出し,1469年(文明元)光信(みつのぶ)が宮廷絵所預(えどころあずかり)になって画壇での主導的立場を確立した。家系はその後光茂(みつもち),光元と続くが,1569年(永禄12)光元の戦死によって土佐家の絵所預の地位は失われ,弟子の光吉が和泉国堺で画系の維持に努めた。江戸時代になり,光吉の子光則が家再興のため子の光起(みつおき)とともに京都に戻り,光則没後の1654年(承応3)に光起が絵所預の地位に復して土佐家を再興,幕末までその命脈を保った。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…すぐれた日本的意匠の創造という点で,日本美術史上の一つの頂点をここに認めることができる。装飾屛風への需要は,この時期に飛躍的に増し,それに応じて民間画工が狩野派,土佐派に代わり活躍した。風俗画は彼らの最も多く手がけた画題であり,そこには時代の現世享楽の気風を反映して遊里や芝居小屋の情景が好んで描かれた。…
…1309年(延慶2)に絵所預(えどころあずかり)高階隆兼が描いた《春日権現験記》は濃彩綿密な技巧の極致を示し,古典的なやまと絵表現の集大成とみることができる。このように宮廷絵所の絵師を中心にやまと絵の正系が伝えられ,14世紀末には絵所預となった土佐行光以後,土佐派の画人は代々絵所預の職を世襲するに至った。やまと絵はその画風を特徴づける言葉となり,様式上の概念からさらに流派的意味をも含むものとなった。…
※「土佐派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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