コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

土佐派 とさは

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

土佐派
とさは

やまと絵の一派。やまと絵の諸流派のうち,最長の家系と最多の門人を誇り,武家を背景とする狩野派に対抗して,公家的なやまと絵流派の中心として存続。江戸時代以降制作の土佐系図によれば,平安時代中期の藤原基光 (もとみつ) を始祖として,江戸時代まで存続したとされる。しかし明確に土佐の姓を名のる画家は,応永 13 (1406) 年に土佐将監 (しょうげん) と記録される土佐行広が最初。行広は宮廷絵所預 (えどころあずかり) に任じられ,永享6 (34) 年まで生存,『融通念仏縁起絵巻』 (14,6名の合作) を描いた。長禄~寛正年間 (57~65) 頃,行広の次男広周 (ひろかね) が宮廷の絵所預,室町幕府の絵所絵師として活躍している。のち土佐光信のとき絵所預を世襲するようになり,社会的地位が確立,流派として実質的成立をみた。光信の子の光茂は天文 19 (1550) 年までの在世と,『当麻 (たいま) 寺縁起絵巻』『桑実寺縁起絵巻』などを制作したことが知られる。桃山時代には光茂の門人 (あるいは次男) の光吉が堺に移住して,細々と命脈を維持した。光吉の遺作には『源氏物語図帖』 (京都国立博物館) がある。『人物禽虫画冊』の筆者で光吉の子,または門人とされる光則は寛永 11 (1634) 年頃,子の土佐光起 (みつおき) とともに京都に移住。光起は光茂以来の画風に漢画の写生的要素を加味して,承応3 (54) 年に,約 100年間中絶していた宮廷絵所預の職に復帰し,土佐派を再建した。その後幕末まで狩野派と並立して活躍を続けたが,芸術的生命は光起で終ったとみられる。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

百科事典マイペディアの解説

土佐派【とさは】

中世〜近世に活躍した大和絵の代表的な画派。本来藤原姓を名乗る宮廷絵所絵師の系譜を引くもので,室町時代の応永・永享年間に,絵所預(えどころあずかり)として活躍した藤原行広が土佐を号したのに始まるとされる。
→関連項目尾形光琳小川破笠狩野元信鍬形【けい】斎住吉具慶住吉如慶中村岳陵奈良絵本西川祐信菱川師宣風俗画

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

世界大百科事典 第2版の解説

とさは【土佐派】

室町初期から幕末にいたるまで,おもに宮廷の絵所を拠点として日本の伝統的な絵画様式を継承・保持した画派。1414年(応永21)に描かれた京都清凉寺の《融通念仏縁起絵巻》に,各場面を分担制作した6人の画家名が記されるが,そのなかに〈土佐〉と呼ばれた2人の画家,行広と行秀の名が知られる。行広は《教言(のりとき)卿記》応永13年(1406)10月29日条に土佐将監と記され,《足利義満像》を描いたのをはじめ1443年(嘉吉3)まで活躍し,経光と号した。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

とさは【土佐派】

日本画の一流派。大和絵様式を継承した画派。宮廷絵所絵師藤原行広が土佐を名乗ったことに始まり、土佐光信により画派として確立。狩野派とともに日本画の二大流派として江戸末期まで続いた。

出典|三省堂大辞林 第三版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

土佐派
とさは

大和絵(やまとえ)の伝統を継承して、もっとも長くその主流を占めた画派。数種類流布する「土佐系図」などでは、その画系は平安時代にまでさかのぼるが、鎌倉時代以前の部分は信憑(しんぴょう)性が薄い。画系の祖として確実に知られるのは1352年(文和1・正平7)ごろに絵所預(えどころあずかり)となったと考えられる藤原行光(ふじわらのゆきみつ)(中御門行光(なかみかどゆきみつ))である。また、土佐の呼称は藤原行広(ゆきひろ)(行光の孫か)が文献上の初出である。以後代々絵所預に任じられたりしているが、行広の次代の光弘(みつひろ)、ついで光信(みつのぶ)が輩出するに及んで、土佐派は著しく発展した。光信は宮廷絵所預であった15世紀なかばから16世紀初めまで、宮廷・幕府などのために絵画活動を行い、室町時代の大和絵制作の中心的存在であった。子の光茂(みつしげ)も、光信を継承して絵所預を務め『桑実寺縁起(くわのみでらえんぎ)』などを残している。しかし室町末期の1569年(永禄12)に光茂の長男・光元が戦死したため土佐派は後継者を失い、中央画壇からの後退を余儀なくされた。堺(さかい)に下った同派は、光吉(みつよし)(光茂の弟子か)を中心に町絵師として画系を維持したが、子の光則(みつのり)は1634年(寛永11)京都に移り、同派の再興を企てた。その子光起(みつおき)は1654年(承応3)ついに宮廷絵所預に任じられ、同派を復興した。以後、光成(みつなり)、光芳(みつよし)らが出て、江戸時代を通じて大和絵の伝統を遵守した。土佐派は中世における大和絵の担い手として重要な存在であり、また近世においては町絵の新しい興隆を促したことも特筆される。なお1662年(寛文2)に同派から出た如慶(じょけい)は住吉派(すみよしは)をおこして、江戸で活躍した。[加藤悦子]
『サントリー美術館編・刊『土佐派の絵画』(1982)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の土佐派の言及

【江戸時代美術】より

…すぐれた日本的意匠の創造という点で,日本美術史上の一つの頂点をここに認めることができる。装飾屛風への需要は,この時期に飛躍的に増し,それに応じて民間画工が狩野派土佐派に代わり活躍した。風俗画は彼らの最も多く手がけた画題であり,そこには時代の現世享楽の気風を反映して遊里や芝居小屋の情景が好んで描かれた。…

【やまと絵】より

…1309年(延慶2)に絵所預(えどころあずかり)高階隆兼が描いた《春日権現験記》は濃彩綿密な技巧の極致を示し,古典的なやまと絵表現の集大成とみることができる。このように宮廷絵所の絵師を中心にやまと絵の正系が伝えられ,14世紀末には絵所預となった土佐行光以後,土佐派の画人は代々絵所預の職を世襲するに至った。やまと絵はその画風を特徴づける言葉となり,様式上の概念からさらに流派的意味をも含むものとなった。…

※「土佐派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

土佐派の関連キーワード後土御門天皇勾当内侍行海(1)浜松図屏風傾城反魂香土佐 光章在原重寿展べ観る山本龍洞住吉広行勝山琢舟土佐光文菊池容斎吉川霊華尾崎良清御用絵師浅利政吉河原南汀土佐広周土佐光成土佐広成

今日のキーワード

きらきらネーム

俗に、一般的・伝統的でない漢字の読み方や、人名には合わない単語を用いた、一風変わった名前のこと。名字についてはいわない。どきゅんネーム。[補説]名前に使用する漢字は、戸籍法により常用漢字・人名用漢字の...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

土佐派の関連情報