精選版 日本国語大辞典 「土手町」の意味・読み・例文・類語 どて‐まち【土手町】 [ 1 ] 京都の地名。賀茂川を隔てて木屋町通に面し、出合宿などがあり、私娼も出没した。[初出の実例]「近道に恋の仕様が有物を 嶋原よりも堤(ドテ)町の暮」(出典:俳諧・西鶴大矢数(1681)第一八)[ 2 ] 〘 名詞 〙 河岸のこと。京都地方でいう。 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
日本歴史地名大系 「土手町」の解説 土手町どてまち 青森県:弘前市弘前城下土手町[現在地名]弘前市土手町城の南東に位置し、松森(まつもり)町から一番(いちばん)町に至る道筋の町並で、山道(やまみち)町と品川(しながわ)町と平行する。町内を土淵(つちぶち)川が横断。寛永末年頃の津軽弘前城之絵図(櫛引元三氏蔵)には、町屋として町割され、一七三軒の町屋がある。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)によれば、町名は記されないが六四軒の町屋が並び、職種は大工・鍛冶屋・桶屋・銀屋・室屋・居鯖など、商家では大坂屋・輪嶋屋・江戸屋など屋号のあるものが多く、ほかに煙草屋・酒屋など商工入交じりの町を形成。町内北側の小路には「かわら屋」が二軒あり、のちの瓦(かわら)ケ町の前身である。承応二年(一六五三)の津軽領道程帳(同館蔵)に弘前土手町の名があり、大道筋の経由地点の一つであった。寛文一三年(一六七三)の弘前中惣屋敷絵図(同館蔵)によれば、町内から取上御派(とりあげおはだち)町(現松森町)に至る町並ができて、また本寺(もとてら)町一丁目(現一番町)の道路が設けられて現元寺(もとてら)町と接続した。町内は上土手(かみどて)町と鍛冶(かじ)町とに分れ、鍛冶町は取上御派町と接する。延宝六年(一六七八)の弘前町方屋敷割(八木橋文庫蔵)によれば、新土手(しんどて)町、土手カチ町に分れ、本寺町一丁目との境から代官(だいかん)町へ曲がる道筋付近までが新土手町で、それよりトリアケハタチ町の境までが土手カチ町。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by