土田庄(読み)つちだのしよう

日本歴史地名大系 「土田庄」の解説

土田庄
つちだのしよう

於古おこ川支流安津見あづみ川流域の山間部(山方)志加しか浦沿岸部(浦方)一帯を庄域とし、賀茂かも庄・土田加茂つちだかも庄とも称した。庄名は古代の都知つち(和名抄)に由来すると思われる。京都上賀茂社領への武士の狼藉を停止した寿永三年(一一八四)四月二四日の源頼朝下文案(賀茂別雷神社文書)に「能登国 土田庄・桃浦」とあるのが初見。桃浦ももうらは志加浦地区の百浦ももうらをさすと考えられる。諸国加茂社領諸家役系図(同文書)に「保延二年正祝成兼、能登庄、久安元年同、久寿元年同」とみえるので、おそらく保延二年(一一三六)までに上賀茂社領となり、神社側では能登庄と呼称、この年正祝成兼がなんらかの権利を有していたとみられる。

承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文によると、土田庄は文治四年(一一八八)の立券で面積一六町七段六(もとは四一町七段四)。なおこの注文に当庄と並んで記される賀茂庄前述の桃浦をさすものと考えられる。貞応三年(一二二四)八月一〇日の宣陽門院所領目録(島田文書)では上西門院統子より進められた新御領に土田庄が含まれており、文治四年上西門院がまず本家職を獲得したと考えられる。上西門院の院司藤原基家は久安四年(一一四八)から久寿三年(一一五六)まで能登守であり、また寿永二年一二月から元暦二年(一一八五)六月まで能登が同院の分国となり、同時に基家の孫基能が能登守という状況のなかで立券されたものであろう。上西門院から後白河法皇を経て京都長講堂領となり、建久三年(一一九二)三月法皇の死去に先立って皇女宣陽門院覲子に譲与された。承元二年(一二〇八)一一月日付の承信譲状(曼殊院文書)によると、曼殊院承信は土田庄を他の私領とともに大納言僧都(承兼か)に譲り、没後は中納言禅師に相続させるよう指示、これによって庄務権は曼殊まんしゆ(現京都市左京区)が継承することになった。本家職は承久の乱後幕府に没収されたがやがて返還され、宣陽門院の養女鷹司院長子、後深草上皇と伝えられ、持明院統領を形成していたと推定される(文和二年八月一一日「後光厳天皇消息案」伏見宮記録)。前掲の諸国加茂社領諸家役系図によると、弘安九年(一二八六)に正禰宜久政、永仁元年(一二九三)に正禰宜能季が公文職を継承しており、上賀茂社は引続き土田庄に得分を有していた。


土田庄
つちだのしよう

東大寺上座威儀師慶寿の私領田の所当加地子の寄進になる東大寺花厳会免田(料所)の一である(→福田庄。所在(括弧内は坪数)内平群東うちへぐりひがし条一里(一)・二里(七)・三里(二〇)・四里(一)、内平群中条三里(三)・四里(二)で、現大字三里みさと吉新よししん・大字西宮にしのみやを中心に散在し、摂関家領吉田よしだ庄・興福寺雑役免興富おきとみ庄・西宮庄と交錯しているうえ、吐田はんだ庄とは同坪で入組み、東大・興福両寺争論の原因となった。

その後、保延三年(一一三七)の大和国東大寺花厳会床饗免田注文案(狩野亨吉収集文書)の「名々事」では南土田庄・北土田庄、その他のみように分割相伝され、名の所在地については「上土田」「下土田」などとも記され、複雑に交錯している。


土田庄
つちだのしよう

竜王りゆうおうしま地区を中心として近江八幡市倉橋部くらはしべにかけての一帯に展開した初期庄園。承平二年(九三二)一月二一日の源昇家領近江国土田庄田地注文(東寺文書)に「安吉郷字土田庄」とある。当庄領有の移行過程を注進したこの注文によれば、庄地の内訳は蒲生郡司佐々貴峯雄の立券による田地と、その後峯雄と擬大領大友馬飼・京戸佐々貴豊庭が立券した田地および京下清滝直道ら分の田地から成立っていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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