日本歴史地名大系 「土田庄」の解説
土田庄
つちだのしよう
承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文によると、土田庄は文治四年(一一八八)の立券で面積一六町七段六(もとは四一町七段四)。なおこの注文に当庄と並んで記される賀茂庄は前述の桃浦をさすものと考えられる。貞応三年(一二二四)八月一〇日の宣陽門院所領目録(島田文書)では上西門院統子より進められた新御領に土田庄が含まれており、文治四年上西門院がまず本家職を獲得したと考えられる。上西門院の院司藤原基家は久安四年(一一四八)から久寿三年(一一五六)まで能登守であり、また寿永二年一二月から元暦二年(一一八五)六月まで能登が同院の分国となり、同時に基家の孫基能が能登守という状況のなかで立券されたものであろう。上西門院から後白河法皇を経て京都長講堂領となり、建久三年(一一九二)三月法皇の死去に先立って皇女宣陽門院覲子に譲与された。承元二年(一二〇八)一一月日付の承信譲状(曼殊院文書)によると、曼殊院承信は土田庄を他の私領とともに大納言僧都(承兼か)に譲り、没後は中納言禅師に相続させるよう指示、これによって庄務権は
土田庄
つちだのしよう
東大寺上座威儀師慶寿の私領田の所当加地子の寄進になる東大寺花厳会免田(料所)の一である(→福田庄)。所在(括弧内は坪数)は
その後、保延三年(一一三七)の大和国東大寺花厳会床饗免田注文案(狩野亨吉収集文書)の「名々事」では南土田庄・北土田庄、その他の
土田庄
つちだのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報