日本大百科全書(ニッポニカ) 「地中海世界」の意味・わかりやすい解説
地中海世界
ちちゅうかいせかい
15世紀末以後の、ヨーロッパ人のいわゆる「地理上の発見」によって、彼らの視野はアジア、アメリカ大陸にまで拡大した。18世紀後半に始まるイギリスを先頭にした産業革命を契機として、世界はヨーロッパ産業の市場としてヨーロッパを中心にして結び付けられ、やがて19世紀末以降には列強の帝国主義的拡大によって世界の一体化が進み、ここに地球全体が一つの「世界」として相互に密接な、経済・政治・文化の網の目によって結び合わされるようになった。20世紀の二次にわたる世界大戦そのものは、まさに一体化された世界が存在していたことの証拠である。
このようなグローバルな一つの世界が出現する以前には、地球上のある部分のみを覆う地域的世界がある種の完結体となって、人間の歴史は進んできた。それぞれの地域的世界は、その内部の諸民族が均質なるがゆえに一つの世界をなしたのではなく、むしろ経済発展段階や社会経済構成体を異にする諸民族が、相互に有機的な関連をもつ構造的複合体として、それらの一定面積の地域は「世界」として存在していたととらえられる。それらの地域的世界、すなわち「歴史的小世界」はそれぞれ独自の構造をもつが、それは、そこに包含される諸民族の社会構造と、その歴史的小世界における国際的構造とが、不可分の有機的関連をもつがゆえである。そのような歴史的小世界として、古代オリエント世界、インドを中心とする南アジア世界、中国を中心とする東アジア世界およびヨーロッパ中世世界などがとらえられるが、ここで取り扱う「地中海世界」とはそのような歴史的小世界の一つなのである。したがって、地中海を囲む周囲の諸民族、諸国家の間に、時代を超えて形成され存在する、気候・風土・地勢ならびに海といった自然的条件によって特徴づけられる地中海世界をここで扱うのではない。
[弓削 達]
時間的範囲
紀元前二千年紀には、ミケーネ諸小王国、ヒッタイト王国、オリエントの諸王国は、「海の民」、インド・ヨーロッパ語族およびセム語族の大移動に条件づけられて、「東地中海世界」とよびうる歴史的小世界を形づくっていたが、ドーリス人の南下定住と「海の民」の攻撃・破壊によってこの東地中海世界が崩壊したあと、地中海地方には、各地に諸民族・諸種族の小集団が村落的に定住していた。このころ(前12世紀から二、三百年の期間)を形成期とし、またほぼ紀元後6世紀に至るまでの二、三百年間を崩壊期とするその間の長い時期を地中海世界とよぶ。
[弓削 達]
構造的特徴
一つの歴史的小世界としての地中海世界の構造的な特徴は、そこにおける諸種族の小集団(共同体)の構造とその発展の仕方にみいだされ、さらにそれら諸共同体相互の関連の独自のあり方に求められる。すなわち、共同体とは、生産力の低い段階において人間が自然に働きかけ、自然(他の動物を含めて)を防衛する際の団体形成のあり方であって、食糧獲得と防衛のために人間は比較的に共同性・平等性の強い集団(共同体)を形成する。共同体のこのような性格に応じて、生産力が上昇すると、それに伴い、共同性・平等性は薄れ、共同体内の上下の分解がおこる。地中海世界における共同体は、地中海によって促進される商業交易の影響のもとで、こうした分解は他の歴史的小世界と比べて特徴的に速い速度をもっていた。この分解のある時点で、共同体はそのなかの有力者の指導のもとに、多くは複数の共同体が合体(集住)してポリス(俗にいう都市国家、厳密にいえば共同体国家)を形成した。アテネ、スパルタなどのギリシアの市民団体も、ローマも、広義にいえばこうしたポリスであった。
[弓削 達]
発展と分解
地中海世界とは、このような構造の多数の共同体が精粗さまざまに散在している世界であった。この世界は、多数の共同体の構造とその発展(分解の方向への)との同一性によって、他とは区別される独自の性格をもった世界であった。しかも諸共同体のうち、地中海沿岸に近い共同体は内陸共同体より早く発展(分解)するが、このような早期に発展した共同体は、発展の後れた共同体に対して影響を与え、それらの分解を促進する。共同体国家間の国際関係は、戦争においても、平時の商業交易においても、こうした影響の方向性を特徴とするものであった。
共同体国家において、分解が一定限度を超し、国家としての存立が危険なまでに至ると、共同体国家は内政の改革、とくに所有と権利の不平等を改める改革によって、共同体の共同性の再建を図ったが、内政改革と並んで、共同体市民の一部を植民に送り出す方法がしばしば選ばれた。こうした植民活動によって、ギリシア・ローマの先進的文化とそれらの共同体構造(ポリス)はさらに地中海地域全体に広がっていった。この植民に際して、ギリシア人は植民市を母市から独立のポリスとする方法をとり、ローマ人は植民市を母市ローマの行政的一区画として母市から独立させない方法をとった。このような植民方法の相違は重大な結果を生んだ。すなわち、ローマは植民活動によってポリスを外へと拡張し、国家を強大ならしめたのに対して、ギリシア人はポリスの分立をますます促進したのである。都市国家(共同体国家)ローマは、前6世紀末以来絶えず近隣諸国家と戦闘を交え、これらの戦争が共同体の分解の最強の要因となったのであったが、このような他に比類ない強度の分解は、植民という外への圧力となって現れ、結果的に、ローマの地中海地方に対する征服と支配を生み出すことになった。ローマ共同体国家の強い分解とその復原策としての征服と植民は、ローマ世界(地中海世界の、という意味での)帝国を生み出したのであった。共同体の共通の性格と、その共同体固有の性格に由来する独自の国際的構造をもっていた地中海世界は、ローマ帝国によって、現実的に一つの歴史的小世界としての地中海世界となった。このような性格の地中海世界の盛期は、前2世紀のなかばごろより紀元2世紀末ごろまでであった、ととらえることができる。
[弓削 達]
歴史的小世界の終焉
紀元3世紀以後になると、地中海沿岸の共同体の性格の影響を、あまり、あるいはまったく受けない内陸地方の共同体の重要度が増してくる。それら内陸地方の諸種族の共同体はポリスを形成することなく、地中海世界において達成された生産力と文化を受け継いで力を増しつつ、地中海世界の外から内へとしだいに移動し、地中海世界の一つの世界としての統一性を破壊する。一方、地中海世界内部においても、軍事的・政治的・文化的にローマの支配力は弱まり、各地域の独自の発展が表に現れてくる。地中海世界の外または周辺にあった諸種族が独自の歴史的小世界を形成し始め、地中海世界の中心の諸共同体を周辺として自己に従属し始めるとき、歴史的小世界としての地中海世界はその歴史を閉じる。それは紀元後6世紀である。
[弓削 達]
『弓削達著『地中海世界とローマ帝国』(1977・岩波書店)』