日本大百科全書(ニッポニカ) 「地域紛争」の意味・わかりやすい解説
地域紛争
ちいきふんそう
regional conflict
地理的に限定された紛争で、一方で第二次世界大戦までの世界的に連動する大戦争に、他方で国内に限定される内戦・暴動などに対比して用いられる。不戦条約(ケロッグ‐ブリアン条約、1928年)以来の戦争禁止に加えて、戦後は国連憲章が武力行使一般を禁止したため、「戦争」概念が使いにくくなった。また戦後は厳しい冷戦下で主要国の戦争は核戦争にエスカレートする確率がきわめて高かったから、逆に世界大戦、あるいは主要国間の大規模戦争も回避された。紛争は多かったが、朝鮮戦争、ベトナム戦争、台湾海峡危機、ハンガリー事件、ベルリン危機、キューバ危機、四次にわたる中東戦争、印パ戦争、中ソ対立、あるいはアフリカの多くの内戦など、いずれも事実として地域的に限定された。戦争は国際法上、国家間の武力紛争をさすが、これらの紛争は一方の当事者が非国家主体(反政府勢力、武装した宗教・民族勢力など)である場合や、緊張度は高いが大規模な武力行使を伴わない危機などが含まれるため、戦争よりも広い「紛争」概念が一般化した。
ただ国際的な地域の性格は政治、経済、文化のいずれの面でみるかにより、また歴史的にみても多様である。このため地域紛争の動向把握に必要な統一的なデータの形成がむずかしく、しだいに各紛争の属性を削ぎ落として最大公約数の「烈度intensity」によって紛争を把握することが一般化した。「ウプサラ紛争データ・プログラム(UCDP)」(オスロ国際平和研究所)はその種のデータのなかでもよく利用されるもので、1946年から現在までの紛争数を「マイナーな武力紛争」(死者が年間25人以上、1000人以下)と「戦争」(死者1000人以上)に分けて算出する。2010年版によると、第二次世界大戦後、国家間の戦争は年に数件ときわめて少なく、その多くも内戦に絡むものであった。戦後多かった植民地独立紛争も、1974年のポルトガル革命に伴うアンゴラ、モザンビークの独立後はなくなった。しかし紛争数は1970年代後半から急増し、冷戦終結直後の1991~1992年に50件超とピークに達した。そのほとんどは内戦かそれが国際化した紛争である。その多くは戦後植民地が一斉に独立し国家数が3倍にもなったことに起因する。政治・経済の基盤が整っていなかった旧植民地諸国は、戦後の先進国中心の高度な国際政治・経済システムに投げ入れられたことで急激な社会変動にみまわれ、1970年代までに国内統治が全般に脆弱(ぜいじゃく)になった。1980年代に始まった西側先進国の金融経済を中心とするグローバル化は、アジアでは成長軌道に乗る国家も生み出したが、アフリカでは国内経済をさらに痛めつけ、加えて冷戦終結に伴う経済援助の流れの変化や民主化・市場化要求が、国内混乱を甚だしいものにした。冷戦終結直後に紛争数がピークを迎えたのは、こうした開発途上国現地の紛争要因の増大と、ソ連を含む社会主義圏の非効率な国家の解体に伴う紛争多発が重なったものである。
紛争の烈度や分布は、地域現地の紛争要因とこれに国際社会、端的には主要国が、安全保障、経済関係、影響力競争などの観点からどのようにかかわるかによるところが大きい。冒頭にあげた地域紛争がいずれもほぼ東西両陣営の境界で生じたことからわかるように、冷戦期地域紛争は、米ソあるいは東西の陣取り競争と重なって生じたものであった。冷戦後は、ソ連の解体で単極となったアメリカの政策が、紛争の大きな規定要因となった。まずアフリカで多発した内戦に対しては、国連による平和維持活動(PKO)のミッションが積極的に派遣された。ソ連・社会主義圏解体に伴う一連の紛争、とりわけボスニア・ヘルツェゴビナ内戦からマケドニア(現、北マケドニア共和国)、セルビアのコソボ問題に至る旧ユーゴスラビア紛争に対しては、アメリカを中心とする北大西洋条約機構(NATO)が拡大防止にあたった。しかし冷戦後の地域紛争の特徴は、クウェートに侵攻したイラクに対してアメリカが多国籍軍を組織し、国連安全保障理事会の制裁決議を実行した湾岸戦争にみられた。この勝利の経験に基づいてアメリカは、覇権国の冷戦後の戦略として、湾岸戦争規模の二つの大規模地域紛争major regional conflicts(MRC)に対処する軍事的態勢を整えたのである。
21世紀に入るとこうした紛争パターンはふたたび変化した。アメリカが2001年9月に大規模同時多発テロによって直接攻撃にさらされ、「対テロ戦争」を発動したからである。アメリカはテロリスト(アルカイダ指導者)の引き渡しを拒否したアフガニスタンに進攻、タリバン政権を放逐した。続いて2003年、大量破壊兵器開発の疑惑を理由にイラクに進攻、サダム・フセイン政権を崩壊させた。このような国内体制の変更regime changeまで求めるアメリカの戦略は「帝国的」と形容されたが、これが21世紀の地域紛争の特徴をつくりだした。ただこれは長くは続かなかった。テロリストを捕捉できず、疑惑があるとした大量破壊兵器も発見できなかったため、武力行使の正統性を確立できず、加えて独裁的な政権を放逐した後の社会混乱から、アメリカ自身が抜け出せなくなったからである。弱点を抱えたアメリカに対しては、ロシアや中国の牽制(けんせい)行動もみられるようになった。2008年8月、民族問題を理由にロシアの進攻で始まったジョージア(グルジア)紛争はその典型である。2009年のオバマ政権の登場とともに、アメリカの「帝国的」介入による地域紛争の傾向は後退した。
しかし勢いが衰えそうにないグローバル化で、開発途上国では当面、急速な社会変動が宗教・文化を強調する「アイデンティティの政治」を前面に押し出す可能性が高い。各国、とくに開発途上国の政治・経済システムがそれを吸収する統治能力を発展させられなければ、2011年初頭のチュニジアやエジプトの政変のように紛争要因は蔓延(まんえん)するであろう。地域紛争は国際政治のいっそう重大な焦点となる可能性があり、主要国はもちろん、国連、地域機関などが役割分担しつつ協力的に対処する体制を構築することが急務となった。
[納家政嗣]