地
庄
じびのしよう
現比婆郡高野町・比和町、庄原市北西部など旧恵蘇郡のほぼ全域を荘域とする。庄原市域で当庄に含まれるのは、上原・三日市・戸郷・市・田原・本郷・殿垣内・川北・門田・濁川・掛田・七塚の各町で、荘域南部にあたる。
荘名は承久三年(一二二一)七月二六日の関東下知状(山内首藤家文書)にみえ、「備後国地
庄事、地頭重俊之子息太郎、於京方雖令死去、同次郎於御方致合戦之忠畢、然者、重俊地頭職無相違可令安堵之状、依仰下知如件」とある。荘名については「芸藩通志」に「聖武天皇の時、行基此地に来り高山に入り、栗の大樹を伐て観音地蔵、毘沙門の像を造り堂を建て、高山千手堂と呼ぶ、又地蔵、毘沙門の冠字を摘て、此里を地毘の庄と名く」とあり、本郷村高(甲)山の千手堂(のちの円通寺)との関係が記されている。
永享一二年(一四四〇)八月七日の山内時通注進状案(山内首藤家文書)によると、荘内には本郷・上原・下原・川北(現庄原市)、伊与・伊与東(現比和町)、多賀(現高野町)の七郷があり、領家・本所は本郷・上原・下原が嵯峨千光寺(現京都市西京区)、川北が栂尾高山寺(同右京区)、伊与・伊与東・多賀が蓮華王院とある(比婆郡比和町の→伊与郷 高野町の→多賀村)。すなわち後白河法皇が平清盛をして建立せしめた蓮華王院など諸寺院領であり、隣接の信敷庄が平家没官領であったことなどからみて、この地方は平氏との関係が深かったらしく、当庄も平氏の手を経ていると考えられるが確証はない。
地
庄の地頭に補任された山内首藤氏は、相模国山内庄(現神奈川県鎌倉市)を本貫地とする源家譜代の家人であったが、源頼朝挙兵の際、山内経俊が平家方となったため、山内庄をとりあげられた。しかし経俊の母摩々局が頼朝の乳母であった関係により許され、母の私領早河庄一得名(現神奈川県小田原市)に拠った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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