多賀村(読み)たかむら

日本歴史地名大系 「多賀村」の解説

多賀村
たかむら

[現在地名]井手町大字多賀

青谷あおだに川と南谷みなみたに川に挟まれた、なだらかな丘陵台地に民家が集中する。東部山麓には茶臼塚ちやうすつか古墳をはじめ奥白坂おくしろさか古墳群・多賀東部古墳群・清水奥しみずおく古墳群・高神社たかじんじや古墳群・上堂うえんどう古墳群など、おもに須恵器を副葬した後期古墳群が分布する。古代条里制の遺称と考えられるつぼという小字名が残り、早くより開拓された地であったと思われる。中世には安堵あんど庄の地。

中世、多賀城があったらしく、「山城志」は深沢蔵人なる人物が城主であったといい、明治一〇年代の「京都府地誌」は、城跡不明ながら、村の東南にあったという伝承を記す。また「綴喜郡誌」は村の東北の高燥の地に多賀源左衛門の城跡と伝える地があり、そこから南へ一―二町の所に殿井とのいという井戸があり、清水がわき出ていると記す。


多賀村
たがむら

[現在地名]近江八幡市多賀町

市井いちい村の北東に位置し、西は八幡町。北方北庄きたのしよう村との間に西にしの湖の一部が湾入、朝鮮人街道から分岐して北西方の長命寺ちようめいじ村に至る道が通る。永正九年(一五一二)九月日の藤原光吉大工職譲状(高木文書)しま郷のうちとして「多賀村惣中」とある。寛永一〇年(一六三三)山城淀藩領、貞享二年(一六八五)大和郡山藩領となり、同藩領で幕末に至る。寛永石高帳では高三二一石余。なお元和八年(一六二二)の物成高は一七〇石余(多賀共有文書)。慶安二年書上によると田二六八石余・畑四六石余・永荒川欠け六五石余。


多賀村
たがむら

[現在地名]一宮町多賀

北山きたやま村の南西、北西流する郡家ぐんげ川左岸にある。北西は海。西部を柳沢やなぎさわ川が北へ流れ、北端で郡家川に合流する。伊弉諾いざなぎ神宮が当地にある。伊弉諾尊を祀る神社は真福寺本「古事記」神代巻に「伊耶那岐大神は淡海の多賀に坐せり」とあることによって近江国犬上いぬかみ郡の式内社「多何神社」(現滋賀県多賀町多賀大社)が有名であるが、「日本書紀」神代上本文に伊弉諾尊は「構幽宮於淡路之洲、寂然長隠者矣」とあること、前記の「古事記」の文も同書道果本・道祥本などには「淡路の多賀」とあること、および「延喜式」神名帳にみえる津名郡の「淡路伊佐奈伎イサナキノ神社」が名神大社であることなどから、淡路の多賀説が古伝と考えられる。


多賀村
たかむら

中世、じび庄の北部地域をさし、現在の高野町域に相当する。元徳二年(一三三〇)三月一八日付山内長快譲状(山内首藤家文書、以下同文書)に「地庄多賀村」とみえる。古くは「多気」とも記していた。文応二年(一二六一)二月二八日付千光寺領備後地庄本郷内領家職田数目録案に載る「多気村」は当村をさし、京都嵯峨千光さがせんこう寺領であったことが知られる。

庄の地頭山内通資は、当村内の新市しんいち蔀山しとみやま城を築き、正和五年(一三一六)関東から入部したが(芸藩通志)、のち本郷ほんごう(現庄原市)甲山こうやま城に移り、蔀山城は弟の通俊に守らせた。


多賀村
たがむら

[現在地名]多賀町多賀

青竜せいりゆう山北麓、鈴鹿山脈から流れ出たせり川と犬上川に挟まれる。多賀神社の門前町として古くから栄えた。天正一九年(一五九一)四月二七日の御蔵入目録(林文書)に「たか村の内」として四九五石余とある。慶長七年(一六〇二)の検地では多賀村多賀大明神社領分として三五二石余とある(甲良町史)。慶長高辻帳には彦根藩領が五四九石余と多賀村内明神御社領分三五二石余がある。


多賀村
たがむら

[現在地名]赤坂町多賀

倉敷往来筋の西軽部にしかるべ村の北にある。慶長一〇年(一六〇五)の備前国高物成帳(備陽記)軽部庄に村名がみえる。「吉備温故秘録」は笹原ささはら庄の村とする。寛永備前国絵図では高七〇二石余。貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)によると慶長九年検地があり、高七八六石余。貞享元年の荒などを引いた残高は六四一石余。「備前記」によると枝村におおシゲ・坂長さかなががある。享保六年(一七二一)には田畠四〇町八反余、家数七九・人数五〇六、池一五(備陽記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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