八幡神に対する信仰。大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮(八幡宮)に起こり,日本で最も普及した神社信仰である。しかしその発生発達は複雑で,古来諸説が多く,海神,鍛冶神,ヤハタ(地名)神,幡を立ててまつる神,秦氏の氏神,焼畑神,ハルマンhalmang(朝鮮語の〈婆さん〉の俗語)の神(姥神)などといわれてきた。しかし八幡宮神事の祭祀集団は,豊前国北部の田川・京都(みやこ)などの集団と,南部の宇佐・下毛などの集団によって構成されている。したがって,祭祀の中心は豊前国綾幡(あやはた)郷あたりにあり,ここにヤハタ神の名が発生したのかもしれない。やがてこの信仰は宇佐地方に入り,宇佐の比咩(ひめ)神をまつる信仰と融合する。この間この祭祀集団の司祭者は雄略朝には豊国奇巫,用明朝には豊国法師として天皇の治病に参内したと伝えられる。欽明朝のころ大神比義(おおがのひぎ)というシャーマンが宇佐に入りヤハタ神に応神天皇の神格を接近させたようである。712年(和銅5)に鷹居瀬社にまつられ,その後小山田社,さらに725年(神亀2)には現在の地に奉斎され,731年(天平3)には官幣にあずかった。八幡神として中央進出を企てたのは,745年聖武天皇が東大寺の地での大仏の造立を発願したころで,当時の司祭者大神氏は進んで朝廷に近づき,八幡神の託宣により鋳造にともなう数々の問題が解決した。749年(天平勝宝1)東大寺ができると八幡神が上京し,八幡神は一品,比咩神は二品をうけ,封戸が施入され,以後国家の大事に関係した。ことに弓削道鏡の野望を託宣により退け(宇佐八幡宮神託事件),天位に決定的力を現し,のち宇佐使(うさのつかい)が始まった。早くから道教や仏教と習合していたので,781年(天応1)護国霊験威力神通大菩薩の神号が贈られ神仏習合の先駆を示した。最澄や空海が八幡信仰に近づき盛んに寺院鎮守に勧請するころ,宇佐では神功皇后を配祀した。とくに最澄が深く崇敬したので天台僧に親しまれ,僧金亀は827年(天長4)豊後国に由原宮を勧請し,宮寺(みやでら)という新しい信仰体制をつくる。この影響で大安寺僧行教により859年(貞観1)山城国男山に勧請され,翌年石清水八幡宮が建立された。そのころから応神天皇,神功皇后の神格が強調され,王城鎮護の神とあがめられ,伊勢神宮につぐ第2の宗廟として崇敬された。その後源頼信など清和源氏が八幡神を氏神とし,関東や東北にまで伝播するようになった。鎌倉幕府が開かれると,鶴岡八幡宮が武士たちに崇敬され,八幡大菩薩への信仰は全国に伝わり武神としての色彩が強くなった。一方宇佐では,神功皇后が配祀されたころ若宮が創祀され,聖母・神母の信仰が九州に現れ,聖母・神母・母子神信仰が広がり,民衆に強い支持をうけた。比咩大神,神功皇后と若宮四神は六所権現として山岳信仰にも結びついて,八幡大菩薩に対して人聞(にんもん)(神母)菩薩が民衆に信仰された。その本山が豊後国国東(くにさき)半島の六郷山で,ここに六郷山修験道が生まれ,安産,生産,災害防止など広く庶民の願望にこたえた(六郷満山)。しかし全国的には応神天皇を中心に,神功皇后,仲哀天皇などと組み合わされて広く信仰された。現在八幡宮に関係する神社は全国に4万余社がある。
→宇佐神宮
執筆者:中野 幡能
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全国各地に鎮座する八幡神社または若宮八幡社などの名でよばれる神社信仰。本宮は大分県宇佐(うさ)市に鎮座する宇佐神宮で、八幡大神(はちまんおおかみ)、比売大神(ひめおおかみ)、神功(じんぐう)皇后を祭神とし、八幡大神、八幡大菩薩(だいぼさつ)が信仰の対象。わが国の神社信仰のなかでもっとも普及した信仰で、全国に4万余の八幡社がある。八幡神は一般に戦(いくさ)の神、仏教守護神といわれるが、その信仰の発生、発達は複雑で、海の神、鍛冶(かじ)の神、秦(はた)氏の神、焼畑の神、ハルマンの神などの諸説があった。記紀によると豊前(ぶぜん)国宇佐には宇佐津彦、宇佐津姫がみえ、宇佐国造(くにのみやつこ)が祀(まつ)る宇佐神があった。しかし宇佐八幡宮の縁起には、571年(欽明天皇32)のころ宇佐郡菱形池(ひしかたいけ)辺に奇瑞(きずい)を現す鍛冶翁(かじのおきな)がいて、大神比義(おおがのひぎ)が祈ると、3歳の童児が現れ竹葉を立てて八幡神応神(やはたがみおうじん)天皇の霊であると託宣したとあり、その後は宇佐神は「やはた神」に隠れてしまう。宇佐の特殊神事に放生会(ほうじょうえ)、行幸会(ぎょうこうえ)があるが、その祭祀(さいし)集団をみると、豊前国田川郡と京都(みやこ)郡などの「古代とよ国」と、豊前国上毛(かみつみけ)郡と下毛郡などの「古代やま国」とみられる土地の人々が「やはた神」に神験を奉っている。これが原始からの神事ならば、創祀の地は豊前国筑城(ついき)郡綾幡郷(あやはたごう)あるいは上毛郡山田郷で、のちに宇佐に移ったのかもしれない。司祭者は5世紀には豊国奇巫(きふ)、6世紀には豊国法師らしく、いずれも天皇の治病に参内している。このころ蘇我馬子(そがのうまこ)が大神比義を宇佐に遣わし、「やはた神」に応神天皇の神格を与えたのではないかとみられる。同宮は712年(和銅5)に官社となり、天平(てんぴょう)年間(729~749)の東大寺大仏鋳造に協力してその鎮守となり、以後、国分寺を通じて八幡神は全国的になった。東大寺ができると749年に八幡神に一品(いっぽん)、比咩(ひめ)神に二品(にほん)の神階、翌年、当時最高の封戸(ふこ)1400戸が授けられた。以後国家の大事に関係し、託宣により道鏡(どうきょう)の天位の野望を退けたので、宇佐へ恒例の勅使が続いた。この神に781年(天応1)菩薩号が贈られ、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に勧請(かんじょう)されると、皇室の太祖(たいそ)、第二の宗廟(そうびょう)と仰がれた。また、源氏の氏神となり、関東・東北地方に進出し、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)が勧請されると中世武士の崇敬を受け、「神は八幡」といわれ、全国に勧請された。八幡神は仏教のみでなく当初は道教とも融合していて、山岳信仰との関係が深い。平安時代には、九州に広まっていた母子神信仰と結び付き、神母は人聞(にんもん)菩薩とよばれて安産、農耕、生産などの庶民信仰となり、六郷(ろくごう)山を本拠として豊後(ぶんご)の国東(くにさき)半島に栄えた。
[中野幡能]
『中野幡能著『八幡信仰史の研究』上下(増補版・1975・吉川弘文館)』
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…幸若舞曲《百合若大臣》では,嵯峨帝のとき,左大臣公満が長谷寺,岡寺に祈誓して授かった観音の申し子であり,その英雄的ふるまいも神仏の加護に負うところが大きい。神仏の加護による異国退治の話柄からは八幡信仰が想起されるが,幸若舞曲でも百合若の御台所が宇佐八幡へ願を立て,所願成就したと語られている。また,百合若が観音の申し子であることは,神功皇后の本地が観音とされていたこと(《八幡大菩薩御縁起》など)をふまえているものと考えられ,百合若説話と八幡信仰とのかかわりの深さを推測させる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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