坂手村(読み)さかてむら

日本歴史地名大系 「坂手村」の解説

坂手村
さかてむら

[現在地名]内海町坂手

小豆島の東南端に位置し、東は播磨灘に面し、東南に大角おおかど鼻が突出して西南田浦たのうら半島とともに坂手湾を形成する。湾内東側に島が浮んで天然の防波堤をなし島内随一の良港となっている。集落前方海上に福部ふくべ島が浮ぶ。北部には碁石ごいし(四三四・五メートル)に連なる洞雲どううん山・はやぶさ山などがそびえ、その稜線が海に向かって緩傾斜して坂の村となっている。播磨灘に面した徳本とくもとからは弥生式土器片が発見され、室町末期の一石五輪塔数基があり、背後の山中奥籠おくごもりの数個の自然洞窟からは人骨一体が須恵器破片とともに発見された。明応九年(一五〇〇)正月の利貞名外田畠塩浜等日記(赤松家文書)に、岩吉名・久末名の畠坪在所として坂手の「ふのくし」がみえる。当村の草分は、応仁・文明の乱を避けて阿波国を経て移住した播州赤松氏の一族広瀬氏であるという(「広瀬氏系図」小豆島志料)


坂手村
さかでむら

[現在地名]水海道市坂手町

鬼怒きぬ川西岸の台地に所在。対岸は水海道村本郷ほんごうしま岡之内おかのうち江島えじま宿しゆく飯田山いだやま北呂山きたろやま時信ときのぶ篠山しのやま貝置かいおき遠大久保とおくぼ野口のぐち米山こめやま樋之口ひのくちの小字がある。天正一七年(一五八九)下妻城主多賀谷氏の先鋒白井全洞と筒戸つつど(現筑波郡谷和原村)城主相馬胤親の合戦について「多賀谷旧記」に「重経ノ将白井全洞屯猿島ノ坂手樋台」の記事がある。

寛文四年(一六六四)には堀田正俊(のち古河藩主)(寛文朱印留)、宝永三年(一七〇六)には天領であった(飯湖新発記)。安政二年(一八五五)の村書上(草間常四郎文書)によると家数二四五、人口男六七四・女六八六、馬三九。


坂手村
さかてむら

[現在地名]鳥羽市坂手町

鳥羽湾内坂手島で一村をなす。「神鳳鈔」には伊勢国度会わたらい郡と志摩国答志とうし郡両方に坂手御厨があり、伊勢国に属したこともあった。神宮への贄は「神宮雑例集」に「坂手御厨同(仮屋鎮地)祭物、滑海藻二斤雑海藻二斤」とある。

近世は鳥羽藩領で、答志郡に属する。享保一一年(一七二六)の村指出帳(徳川林政史蔵)によれば、高七一・二二四石のうち浦役高三・五石、水主米高四〇・三一石が寛文四年(一六六四)から定引となっており、反畝不明の無地が一・一一一石あった。


坂手村
さかてむら

[現在地名]田原本町大字阪手さかて

寺川東岸、田原本村の東に所在。「日本書紀」景行天皇五七年九月条に「坂手池を造る。即ち竹を其の堤の上に蒔ゑたり」とみえ、「古事記」にも坂手池の記事がある。「万葉集」巻一三の長歌には「幣帛を 奈良より出でて 水蓼 穂積に至り 鳥網張る 坂手を過ぎ 石走る 神奈備山に」とある。これらの坂手は当地とされる。坂手は田原本を含めかみツ道から中ツ道に至る交通路の要地で、田原本も旧名坂田といった(大和志)。「多聞院日記」天正二年(一五七四)一二月二一日条には「坂手領ニ一町在之」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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