坂田郷(読み)さかたごう

日本歴史地名大系 「坂田郷」の解説

坂田郷
さかたごう

古代香川郡坂田郷(和名抄)の郷名を継ぐ中世郷。近世の坂田村を遺称地とし、現在の西春日にしかすが町・松並まつなみ町・峰山みねやま町・西ハゼ町・かみ町を含む一帯比定される。康治二年(一一四三)八月一九日の太政官牒案(安楽寿院古文書)に記された香東こうとう条内野原のはら庄四至の南限に「香西坂田郷」とみえ、当郷は平安時代後期に行われた郡郷制の改編により香西こうざい条に属した。同文書によれば、当郷と野原郷とにまたがって設けられていた白河天皇勅旨田は、その退位とともに応徳年間(一〇八四―八七)に立庄され、皇室領野原庄となった。一方、嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)の院分国讃岐国の公領を書上げた箇所には「坂田勅旨」がみえ、当郷に置かれた白河院勅旨田のすべてが応徳年間に立庄されたわけではなかった。坂田勅旨は性格を変えながらも戦国時代初めまで存続した。このほか、郷内には九条家領坂田庄も鎌倉時代前期に成立している。

九条家領坂田庄は、建長二年(一二五〇)一一月日の九条道家初度惣処分状(九条家文書)に「讃岐国坂田庄 藻壁門院法華堂領」とみえ、讃岐国内の新御領(道家の代に獲得された家領)の一つとして、道家の三男前摂政一条実経へ本家職が譲与されている。


坂田郷
さかたごう

上坂田かみさかだ町・下坂田町一帯にあった国衙領。古代の能義のぎ野城のき(和名抄)の一部が開発されて成立したものと推測される。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造営所注進状(北島家文書)に、流鏑馬勤仕の第八番および相撲役勤仕の一つとして「坂田郷」がみえる。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳には、その第五番に「坂田郷三十二丁一反三百歩成田五郎入道」とみえる。


坂田郷
さかたごう

和名抄」諸本とも訓を欠く。「日本地理志料」では「佐加太」と読み、三沢みさわ大町おおまち鷹巣たかのす中目なかのめ小原おばら白石しろいし蔵本くらもと(現白石市)渡瀬わたらせ(現七ヶ宿町)にわたる地とする。


坂田郷
さかたごう

「和名抄」東急本には「佐加多」と訓を付す。「日本霊異記」に「香川の郡坂田の里に、一人の富人有り、夫と妻同姓にして綾君なり」とあり、綾氏の支配が及んでいた地域であった。康治二年(一一四三)八月一九日の太政官牒案(安楽寿院古文書)に記す野原のはら(現高松市)の四至南限に「香西坂田郷」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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