野原庄(読み)のばらのしよう

日本歴史地名大系 「野原庄」の解説

野原庄
のばらのしよう

現荒尾市の全域および現玉名たまな長洲ながす町の大部分を占めたと推定される宇佐八幡弥勒寺喜多院領(本家石清水八幡宮寺)の荘園。東の小岱しようだい山と西の有明海に挟まれた低い丘陵とその間を流れるうら川・菜切なきり川・行末ゆくすえ川の流域の平地からなる。「中右記」永久二年(一一一四)三月一八日条に、朝廷において野原庄で起こった濫行が問題にされている記事がみえ、大宰大弐がかかわっていることから当庄と思われ、この時期にすでに成立していたこと、在地で紛争があったことが知られる。鎌倉初期と推定される弥勒寺喜多院所領注進(石清水文書)の肥後国分に「泉庄 野原庄七百丁実在八百余丁 守山庄 藤崎宮 已上四箇所」とある。おそらく七〇〇町は大田文の公田数であろう。承久二年(一二二〇)石清水宮寺検校祐清は野原庄を日光姫に分与し(同年一二月日「検校祐清譲状」同文書)、嘉禎三年(一二三七)には宮寺検校宗清は同宿女房(妻)が祐清から相伝した荘園であり、子孫相伝の地として子の修理別当行清に譲与している(同年五月日「検校宗清・権別当教清連署処分状案」同文書)。当庄の成立に伴い、荘鎮守として野原八幡宮が現社地に勧請されたとみられ、隣接して神宮寺の霊験れいげん寺野原山日性院があった。野原には庄園しようぞのの地字も残り、おそらく本来は同地が荘の中心であったと思われる。

地頭は補任の時期や契機は不明であるが、嘉禄三年(一二二七)当時、幕府評定衆の毛利禅門(季光)がその職にあって代官を派遣していたが、代官が宇佐宮用途催使に四、五〇〇の勢を率いて狼藉をしたとして、米五〇〇石の進納と代官の改替を命ぜられている(同年二月一五日「関東御教書案」・文永一〇年五月八日「正八幡宮大神宝官使等重申状案」書陵部蔵八幡宮関係文書)。宝治元年(一二四七)のいわゆる宝治合戦で三浦氏の縁者であった毛利禅門は討死し、代わって武蔵国の御家人小代重俊が子重康の忠功によって当庄地頭職に補任された(同年六月二三日「鎌倉将軍藤原頼嗣下文」小代文書)


野原庄
のはらのしよう

野原・坂田さかた両郷にまたがって設けられていた白河院勅旨田が、応徳年間(一〇八四―八七)に立庄されたもので、はじめは皇室領、鎌倉前期以降は京都妙法院門跡領に属した。藤原宗忠の日記「中右記」永久二年(一一一四)三月一八日条によれば、宗忠は大宰大弐藤原顕季が申請した当庄についての濫妨の件を白河院に上奏して決裁を仰いでいる。これは、当時当庄が白河院の所領であって、顕季が知行していたことを示す。鳥羽院御願寺の京都安楽寿あんらくじゆ院の寺領について不輸不入の特権を認めた康治二年(一一四三)八月一九日の太政官牒案(安楽寿院古文書)にみえる当庄の四至によれば、香東こうとう条内にあり、東は野原郷二条二〇里一坪、西は同郷五条二〇里三坪、南は香西こうざい条坂田郷三条一七里三二坪、北は野原郷五条二二里一五坪をそれぞれ境界としていた。おもに野原郷内を庄域とし、一部は坂田郷内に及んでいた。当時は鳥羽皇后美福門院の皇后宮職領に充てられており、安楽寿院の寺領ではないが年貢の一部を分ち進めているため、記載する旨の注記がなされている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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