日本歴史地名大系 「野原庄」の解説
野原庄
のばらのしよう
現荒尾市の全域および現
地頭は補任の時期や契機は不明であるが、嘉禄三年(一二二七)当時、幕府評定衆の毛利禅門(季光)がその職にあって代官を派遣していたが、代官が宇佐宮用途催使に四、五〇〇の勢を率いて狼藉をしたとして、米五〇〇石の進納と代官の改替を命ぜられている(同年二月一五日「関東御教書案」・文永一〇年五月八日「正八幡宮大神宝官使等重申状案」書陵部蔵八幡宮関係文書)。宝治元年(一二四七)のいわゆる宝治合戦で三浦氏の縁者であった毛利禅門は討死し、代わって武蔵国の御家人小代重俊が子重康の忠功によって当庄地頭職に補任された(同年六月二三日「鎌倉将軍藤原頼嗣下文」小代文書)。
野原庄
のはらのしよう
野原・
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報