朝日日本歴史人物事典 「坊門忠信」の解説
坊門忠信
生年:文治3(1187)
鎌倉前期の公卿。権大納言正二位。後鳥羽上皇の外戚として権勢を振るった内大臣坊門信清と権大納言藤原定能の娘との子。自身も後鳥羽上皇や伯母七条院の側近となった。妹(西八条殿)が鎌倉幕府の将軍源実朝の妻となったことから幕府と親密で,承久1(1219)年1月,鶴岡八幡宮で催された実朝の右大臣拝賀の儀式に参列し,実朝が暗殺されるのをまのあたりにした。同3年の承久の乱に際しては,院方の大将軍として宇治で幕府軍と交戦。敗れて幕府に捕らえられ関東に下されたが,西八条殿が北条政子に赦免を願い出たことによって斬刑を許され,帰京して出家。同年8月,幕府により越後(新潟県)に配流された。のち許されて京に戻り,太秦に住んだ。暦仁1(1238)年,将軍藤原頼経が上洛した折,忠信は承久の乱後の措置に報いるため,執権北条泰時に会見を求めたが,泰時はこれを辞退した。なお後鳥羽上皇の命により,院近臣で同門の信成を養子としたが,承久の乱後,信成は水無瀬家を興した。
(秋山喜代子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報