1069年(延久1)創設された〈記録荘園券契所〉の略称。のちにその性格・機能の変遷に応じて,〈記録所〉が正式名称となった。
後三条天皇は,1069年荘園整理令の発令に引き続いて,太政官の外局的機関として記録荘園券契所を設置した。その機能については当該項目を参照されたい。職員は,上卿(しようけい),弁,寄人(よりうど)から成り,長官の上卿には権大納言源経長,ついで権中納言源隆俊が,弁には蔵人右少弁大江匡房(まさふさ)が任ぜられた。弁はのちに執権とか勾当(こうとう)と呼ばれ,蔵人弁が任ぜられて記録所運営のかなめとなった。経長,隆俊,匡房は後三条天皇の腹心で,記録所が天皇の主導のもとに運用されたことを,人的構成の面から裏付けており,のちに記録所が天皇親政の象徴的機関となる萌芽としてみることができる。
延久の記録所は,後三条天皇の譲位後停廃したが,1111年(天永2)白河上皇の命により,延久の例を追って太政官朝所(あいたんどころ)に〈荘園記録所〉が設置された。その目的は,国司と荘園領主との相論を検知するもので,上訴がなければ取り扱わないとされたが,実例に徴すると,領主間の相論も取り扱われている。これは荘園文書の提出を命じ,その理非を審理調査した延久の記録所に比べ,一見弱体化したかにみえるが,訴訟勘決の機能を記録所に付与した意味は大きく,これが後世の記録所の中心的な機能となった。天永の記録所の上卿には,長い弁官の経歴をもつ権中納言藤原宗忠が任命され,弁には蔵人左少弁源雅兼が,寄人(5人以上)には大外記,左大史,明法博士らが任ぜられた。この記録所の活躍はその後まもなく史上から姿を消したが,保元の乱後の後白河親政のもとで再び復活した。すなわち56年(保元1)新立荘園の停止以下7ヵ条の新制を下した朝廷は,それに引き続いて記録所を設置し,政務に練達した権大納言藤原公教を上卿に,蔵人権右中弁藤原惟方以下弁官3人を弁に任じ,大外記,左大史など12人を寄人とした。この記録所は,保元新政の象徴として《今鏡》や《愚管抄》に特筆されているが後白河天皇の譲位後停廃したらしい。
多年の内乱状態を鎮めた源頼朝は,1186年(文治2)朝政刷新の一環として記録所の設置を勧告し,それをうけて朝廷では翌年2月上卿,弁(執権),寄人(12人)を任命し,閑院内裏に記録所を開設した。その職務は,諸司・諸国並びに諸人の訴訟および荘園券契の理非の勘決と,年中式日公事用途の式数の勘申の2ヵ条と定められた。とくに頼朝の勧告においても〈諸方訴訟〉の決断が記録所の目的とされており,摂政九条兼実も,荘園文書の真偽勘検を任とした延久の記録所とは異なり,貴賤の訴訟をひとえに成敗する機関として,その重要性を強調している。こうして記録所は,院政と天皇親政の別なく,公家政権における訴訟の審理・調査ないし勘決の機能を果たしたが,さらに後嵯峨・亀山院政下における院評定の成立・振興,文殿(ふどの)の機能強化の後をうけて,伏見親政下の1293年(永仁1)記録所に庭中(ていちゆう)が置かれ,上卿,弁,寄人を6番に分けて交替出仕する制が定められた。
こうして院政下では文殿,親政下では記録所と機能が分化移行するようになり,1321年(元亨1)後醍醐天皇が親政を開始するや,早速記録所を設置し,訴訟を裁断した。ついで33年(元弘3)鎌倉幕府が滅亡すると,天皇は恩賞方や雑訴決断所を新設し,従来量的にも記録所の職務に大きな部分を占めていた雑訴をこれに移し,記録所は訴訟のうちでも寺社・権門にかかわる大事のみを取り扱い,中央政府のなかに中心的な機関の地位を占めた。そして建武政府の倒壊後,北朝では院政が復活し,文殿が活動する一方,記録所の名称は近世初頭の内裏まで存続したが,その間実質的な機能を急速に失っていった。
執筆者:橋本 義彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
平安後期から戦国期に断続的に朝廷に設置された機関。(1)荘園券契(しょうえんけんけい)の真偽の勘決、(2)朝廷に関する所領の訴訟勘決などをおもに扱った。職員は、基本的には上卿(しょうけい)(参議以上)・弁(弁官)・寄人(よりゅうど)(外記(げき)・明法家(みょうぼうか)など)によって構成された。後三条(ごさんじょう)天皇の延久(えんきゅう)の記録荘園券契所((1)の機能)に始まり、白河(しらかわ)院政期の天永(てんえい)記録所(おもに(2)の機能)、後白河(ごしらかわ)天皇期の保元(ほうげん)記録所((1)(2)両機能)、後白河院政期の文治(ぶんじ)記録所(おもに(2)の機能)を経て、鎌倉期には訴訟機関として常設化するに至る。しかし、院評定(ひょうじょう)制が整備される鎌倉後期には、院の文殿(ふどの)にその機能を奪われるようになり、天皇親政時以外には設置されなくなった。伏見(ふしみ)天皇は1293年(永仁1)記録所を開き番編成で訴訟を扱った。後醍醐(ごだいご)天皇は1321年(元亨1)親政を開始すると、院政の象徴である「文殿庭中(ていちゅう)」(文殿裁判)を停止し、議定衆(ぎじょうしゅう)、記録所を置いた。これは建武(けんむ)政権の記録所に及んだが、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)が設置されると、重事のみの裁決を行う機関となった。建武政権崩壊後も天皇親政時には設置され、「記録所庭中」が行われたが、室町期にはしだいに訴訟機関としての実を失った。その後は不明な点が多いが、戦国期までその名がみえる。
[飯沼賢司]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
平安後期に朝廷におかれた荘園整理機関。寄人(よりうど)の評定による荘園文書審理を任務とするが,上卿(しょうけい)―弁―史(ふひと)の太政官政務処理要員を含み,提出文書の受理から審理結果の天皇(上皇)・陣定(じんのさだめ)への答申,裁定官符宣旨の発給まで一貫処理した。延久記録所は荘公区分の明確化を,天永記録所は伊勢神宮領の拡大阻止を,保元記録所は有力寺社の荘園領有の抑制を,文治記録所は朝廷年中行事費用の確保を,それぞれ固有の任務としたが,所領訴訟審理も担当した。文治記録所は鎌倉時代を通じて訴訟機関として継続し,後醍醐天皇は建武の新政の政治機関とした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…ところが1246年(寛元4)後嵯峨上皇が院中に評定衆と伝奏を置き,評定と奏事をもって政務を運営するに及び,評定目録や奏事目録などを文殿に保管し,文殿の明法官人らに訴訟の審理・勘申を命じ,さらに文殿に庭中(法廷)を開くに至った。こうして院文殿は〈貴賤の訴訟〉をひとえに成敗する所といわれた朝廷の記録所と同質化し,天皇親政のときは記録所,院政のときは院文殿が政務の重要な機関となった。ついで南北朝時代に入っても,北朝では院政が継続し,文殿雑訴法が定められて,庭中式日・越訴式日が設けられ,伝奏(着座公卿または上卿ともいう)が着座して訴訟や議事を指揮した。…
※「記録所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新